[携帯モード] [URL送信]

男と被験体
男と被験体

気がつくと私は、砂浜に転がっていた。


目が覚めてまず視界に入って来たのは、白い飛沫をあげる波とそのずっと向こうにある水平線。
陽は暮れかかり、眼前に広がる海を赤く染めている。
その余りにも毒々しく広がる赤い海から目を逸らしたくて体を捻るが、思うように体が動かない。


ここは一体何処の海なのだろうか、何故私はこのような場所で寝ていたのだろうか。

いや、そもそも。

私とは一体誰なのか。


重い体を何とか支えながら立ち上がる。
頬には湿った砂が張り付き、髪は塩分を多量に含んだ潮風のせいか酷くベタつく。

焦りそうになる気持ちを抑え、必死に頭を巡らせた。

私の名前、家族、住所。

しかし、何一つとして思い出せなかった。


これは所謂、記憶喪失というものなのではないか。
ようやくその考えに達した時、私は小さく震えた。






   『男と被験体』






自覚した途端、私は酷く狼狽した。
辺りを見回すが誰も見当たらない。
ただ世界を赤く染める夕日だけが静かに沈んでゆく。

この広い場所で、私は裸同然の存在だった。


なんとかしなければと思い、体をあちこち触ってみる。
驚いた事に私は携帯電話はおろか財布すら持っていなかった。
携帯電話があれば、すぐに警察なり救急なりへと連絡がつくというのに……、以前の私は物を持ち歩かない主義であったのだろうか。
だとしたら、私は叫んでやりたい。
何故君は自分を証明する何かを持ち歩こうとしなかったのだ!
お陰で今私は困っている!と。

しかし、過去の私にそんな事を言っても意味は無い。
仕方なく、私はここを離れるために未だ打ち寄せる波に背を向けた。



海を離れて、ひたすら坂道を上がる。
道がこちらで良いという確証は何も無く、本当に思うままに進んだ。
誰か人に会えれば、その人に病院への道程を教えてもらおう。
そこから先は臨機応変に、だ。

疲れや混乱の為かあまり深く考えることもせず、ただ黙々と足を進ませた。


夕日は完全に沈み、辺りには街灯がぼんやりと点り始めた。
気温もぐっと下がり、寒さを感じる。

あの時は深く考えなかったが、私は白いシャツ一枚と黒いズボンしか着ておらず、おまけに財布が無かった。
もしかしたら私は、追いはぎにでも遭ったのかもしれない。
……そうかもしれない。
だからあの様な、人のあまり来ない場所に転がされていたのだろうか。

よく見てみると、両腕にはうっすらと縛られたような赤い跡があった。
強盗にでもあい拘束されたのか、以前の私がSM好きのM男だったのか。
是非私の名誉の為にも前者であって欲しいが……。


暫くあてもなく歩いていると、街灯の下に男がいた。

彼に道を尋ねようと思い近付くと、声をかける前にぐるりとこちらを向いた。

「…………」

なんだろう。
この、胸騒ぎは。

男は一瞬驚いた顔をして、私を見詰めた。

なんだろう。

カーンカーンカーンカーン、

頭のどこか隅の方で。

カーンカーンカーン、

警告音が、聞こえる。


しかし私は。
聞かなかった振りをした。

「あ、あの」
「ここに、いたのか」

男はゆっくりと私に近付いてくる。
ここにいたのか、今この男は私にそう言わなかったか?

つまりこの男は……私を知っている?

「あなたは……私を知っているのですか、」
「……。」

思わず聞くと、男の動きがぴたりと止まった。

そして私の顔をじーっと見、何かを考えるように目をつむる。


「お前、何があった、」

ようやく口を開いたと思ったら彼は私をぐいと引き寄せた。
今まで闇の中にいた私は、街灯の明かりによって姿をさらけ出す形となった。

「え、と、気がついたら海で。それ以外は何もわかりません」
「……記憶が無いということか?」
「はい……今まで私は何をしていたのか、いえ、私の名前すらわかりません」

改めて自分の置かれている状況を口に出すと、私は不安で胸がいっぱいになった。

今まで私は恐らく、あえて考えないようにしていたのだろう。
考えて、感じないように。

しかし、この男の出現により私は変わってしまった。
彼が私を知っているという事に対して、信じたくは無いが、安堵してしまったのだ。



「そうか……」

男はそう言ったきり、また静かになった。

そして口元をにやりと歪めて笑うと、突然私を抱き寄せた。

「どこか痛む所はあるか、」

そう優しく問われたが、私はすぐに答えられなかった。

彼が一瞬見せた微笑み……。

私はどこかで、あれを。

「どこか痛むのか」

再度問われ、私は気がついた。
私より頭一ツ分高い彼に捕われたまま、ぼんやりとしていた。

「あ、いえ。大丈夫です」

この男を今手放してしまったら、私はまた一人ぼっちになってしまう。
その事を考えると、目の前が暗くなる。

「それより、貴方は誰ですか?私の……何なのでしょうか、」

何でもいいから、とにかく情報が欲しかった。
彼が誰で、私は何で、今はいつなのか。

「俺は、高田。あんたは俺の大切な……いや、なんでもない」

彼……高田は、またにやりと暗い笑みを見せると、私の手を引いて歩き出した。

「た、高田さん、どこに行くんですか?」
「どこって……帰るんだよ」

だからそれはどこなのだ、と思わず怒鳴りたくなった。
しかし、握られている高田の手が暖かく、そんな気も失せてしまった。

暗闇の中、男二人が手を繋ぎ歩いている光景は一体どうなのだろう。



「お前が突然居なくなるから、俺達はお前を捜しに来たんだよ」
「私が居なくなった……、」
「そうだよ。ふらり、とね」

そう言って高田は私と繋ぐ手に少し力を込めた。
もしかして彼は、私を心配してくれたのだろうか。

「お前はいつもそうだよ。現実をちゃんと見ていない……どこか遠くを見ているような。目を離すとふらりと居なくなるような雰囲気があった」
「…………」
「今だって、そうだよ」

私は何も言えなかった。
記憶が無いせいもあるが、何故だか口を開くのが酷く恐ろしい事のような気がしていた。

「上の奴らは、みんなお前を見ていた。お前に色々な物を見せたり、与えたり。同じ空間に居ながら、お前は特別だった」

聞いてはいけない。

カーンカーンカーンカーン、

また、警告音が。

「お前のあまり変わらない表情を、何とかして引き出そうとしたこともあった」
「あっあの……!高田さん、は何をされているんですか、」

話を変えなければと思い、話題をふってみる。
すると高田はちらりとこちらを見て、見る者が哀しくなるような笑顔を見せた。

深い、引き攣り笑い。

「実験体」
「……え、」

今、なんと言ったか?

「今は違うが、俺は実験体だったんだよ」

……実験、体……?

「科学班の人たちは、俺の事を被験体って呼んでいたな。色々な器械で体を弄られて……」

被験体……これこそ私は聞いてはいけなかった事ではないか。
しかし、もう遅い。
高田の話は止まらない。

「お前には解らないだろうが、真っ暗な部屋で訳の解らない事をさせられたり……、知らない奴らに囲まれて一気にまくし立てられたり。何故俺がこんな場所にいるのか、どうして俺がこんな目にあうのか、その二ツばかり毎日考えていた」

段々と街灯の数も減り、住宅街からも抜けてる。
私はどこへ、この話はどこへ行き着くのだ。

「被験体は沢山居たから、知り合いも出来た。まぁ、出来てもすぐに居なくなったりするんだけどな。初めはそう言う事が理解出来ずに随分苦しんだよ」

彼は淡々と語る。

時折真横を車が走り、そのヘッドライトで彼の端整な顔が浮かび上がる。

「でもある日、俺の環境がガラリと変わったんだ。科学班に与えられる食事からも、あの共同部屋からも。あの辛く苦しい実験からも開放された。俺の知らない所で知り合いが死んでいくという苦痛から、俺は解き放たれた」

高田はそう言って、私を見た。
その目は、冷たさの中に光を帯びていた。

私は高田の話に頭を占領され、自分が記憶喪失だということも忘れていた。


「そして、お前を見つけた。初めて見た時、思わず身震いしたね。どんな場所でも変わらないその凛とした佇まい」

彼は被験体という地獄から抜け出せたのだ。
そしてそこで、私と出会った。

「お前は色々な意味で大勢の目を引き付けたよ」

カーンカーンカーン、

ふいに鳴り始めた警告音

「着いたぞ」

ふと気付くと、目の前に大きな建物が広がっていた。
いつの間にこんな所まで来ていたのだろうか。

全体的に白く、清潔感のある建造物だ。

……私はこの建物を、知って……いる?

カーンカーンカーンカーン、

高田はどこからともなくシルバーのカードを取り出し、玄関の横に取付られている溝にそのカードを走らせた。
ピッという電子音とともに、ガチャンッというロックの外れる音がする。

カーンカーンカーンカーンカーン、

「ほら、入るぞ」

そう言って彼は私の手を引いたが私は動く事が出来なかった。
この建物を見た時から鳴り止まない。

カーンカーンカーンカーンカーンカーン、

警告音が……

カーンカーンカーンカーンカーンカーンカーン、

おさまらない……。


「思い出した、のか」

高田は全く動こうとしない私を訝しみ、問いかけた。

否、思い出してはいない。
ゆるゆると頭を振ると、高田に優しく髪を梳かれた。
思い出しては居ない。全てでは無い。
が、思い出しかけている。

「大丈夫」

抱き寄せられ、あやすように背中を撫でられる。
高田がドアを押し開けて私の手を引くので、つられるように後を追う。

ずんずん進む彼に引きずられる私の後ろで、ガチャ……ン、と静かに扉が閉まった。



[→]

1/2ページ

[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!