大事な話
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その光景を見ても穏やかな気持ちでいられた。何も感じなかったわけではない。それでも、これまでのような燻る感情は生まれなかった。
理由は明白。隣にいた存在のおかげだ。
椿が隣にいた。だから気にせずにいられた。二人の姿を見てどうこうよりも、その前に見せられた嬉しさと戸惑いがない交ぜになって、どうしたら良いかわからなくなった表情の方が印象的だった。
キッカケなんて、単純だ。
少しずつ、少しずつ上塗りされていた色が、あの夜のファミレスでのやり取りで一気に塗り変わった。それは決して油絵具ではないから、下の絵が完璧に見えなくなったわけではないけれど。それでも、気にならなくなる程度には描き換えられて。
当初予定していた色とは異なってしまったが、不満は一切なかった。むしろ、ひどく満足している。
手離しがたいとさえ、思った。
ずっと傍にいれば良い。この位置を望めば良い。そうすればずっと見ていられる。描き続けることができるのにと。
バカな考えを霧散させるために、一度瞼を閉じる。変な望みは持つなと言い聞かせ、手元の本に意識を向けた。
渡された風呂敷の中には浴衣が二枚。一枚は白地の布に薄墨色で小さな虫が這い回り、更に薄く大輪の菊。もう一枚は濃紺の布地に白菊をあしらった物。花弁や葉の影に小さな虫が隠れて見えた。
揃いで用意されたそれは、白が男物で濃紺は女物。
季節外れな上に女物。そう呟いた椿の表情は僅かにひきつっていた。
これを着た絵をとのことだが、果たしてどういうつもりで二枚用意したのか。性別がわからなかったからと言うならまだしも、わかった上でなら良い性格だ。黒沼と付き合っているだけはある。
学祭の絵を見てでこの図柄。どういったものを望んでいるのかは、容易く見当がついた。ならばモデルは女の方が良いのだろう。だが、椿以外を描く気はない。
「お待たせ」
読もうと思っていた本がほとんど進まないまま、センパイが来た。栞を挟まず閉じて、顔を上げる。向かいに座ったセンパイは、何故だか様子がおかしかった。
「どうした?」
「ん?ちょっとね。………それよりさ」
視線をわずかにさ迷わせてからまっすぐに見つめられる。言いにくそうな表情をしながらも、センパイは口を開いた。
「聞いてよ。前に言ってた人形展。結局、行きそびれちゃって」
あ。
「御影君なんかは何度も行ってたらしいけど」
しまった。間違えた。わずかに困り顔のセンパイを凝視しながら、そんな言葉が脳裏を過った。
チケットが手に入った。確かに椿は面白そうと言っていた。だがそれは、センパイも同じ。ならば誘うべきはセンパイだったのだ。ただの同居人ではなく。
けれど全く頭に出てこなかった。それどころか、今この瞬間まですっかり忘れ去っていた。何か言いたげなセンパイの眼差しは、全てを知っている様で。
「………聞いたのか?」
「ん?どんなんがあるかは教えてもらったよ。最終日も行くとか言ってた」
違うのか。ならば。
「黒沼か」
溢れた言葉に、センパイは申し訳なさそうな顔になる。視線を下げ、小さく息を吐いた。
どうするかよく考えた方が良い。それはチケットのことだったのか。試したというほどのことではない。責めるのは筋違いだろう。可能性で言えばセンパイを誘う確率の方が高いはずなのだから。
けれど実際にはそうならなかった。センパイではなく、椿を選んだ。
ならば、そういうことなのだろう。目をそらしていた感情をこんな形で突きつけられるとは。
潮時だ。これ以上は意味がない。
視線を上げ、まっすぐにセンパイを見つめる。
「………センパイ」
「ね、駅前のイルミネーション今日からなんだって。行ってみない?」
最後だからとの言葉が聞こえた気がした。
日暮れまでにはまだ時間がある。適当に時を潰す間、センパイのテンションがいつもよりも僅かに、ほんの僅かに高く感じられた。
「あぁ、もう灯りが点いちゃってる」
「点く瞬間見たかったならここで待ってりゃ良かったじゃねぇか」
「だって寒いじゃん」
「女の方が寒さに強いはずだがな」
「脂肪?ねぇちょっとそれ脂肪の話?」
「近くで見なくて良いのか?」
「話そらすなこんちくしょう!」
明るく振る舞っていても無理をしているのがありありとわかる。ならばせめてと、いつものようにふざける。
「こっちには雪だるまがあるぞ」
広場の端の植え込み付近には雪だるまやトナカイ、サンタやプレゼントが点在していた。メインの下には人が多く、写真を撮っている者もいる。
人の少ない方へと移動した。
「シキ君のとこに黒いサンタが来れば良い」
「黒いサンタ?」
呪詛を込めたような口ぶりだが、意味がわからず傍らのセンパイを見る。
「知らない?黒いサンタ。悪い子のとこにお仕置きに来んの」
「………なまはげかよ」
大体、悪い子っつー年でもねぇ。そう思い、ふと顔を上げたら椿がいた。
メインのイルミネーションの下。驚きと戸惑いのない交ぜになった表情で、こちらを凝視している。
なぜここに。見られた。何も不味いことなどないはずなのに。それでも、居心地の悪さを感じる。
どれ程見つめあっていたのか、やがて椿が視線をそらした。よく見れば隣には見知らぬ女がいて。そうか。今日はデートの日か。ならば隣にいるのが椿の恋人か。
「んー…確かに。言われてみれば似てるね」
「……あ?」
「悪い子はいねぇかぁって」
「あぁ、どっちも冬だしな」
声をかけられ、我に返る。
センパイはアゴに手をやり黒いサンタとなまはげの相違点についてブツブツ呟き始めた。その様子を確認してから、そっと気づかれぬようもう一度椿の方へと視線を向ける。
ちょうど椿が隣の女の手を引き、別方向へと歩き始めた。手袋をしている。だから直接触れあっているわけではない。それでも、手を繋いでいる。
「シキ君?どうかした?」
「………いや」
何でもないと首を振り、センパイに視線を戻す。納得はしてないようだが、追及はされなかった。
「で?どうする?他も見て回るか?」
「ううん。もういい」
見つめてくるセンパイの眉尻は下がっていて。何かに耐えるような表情は長く見ていたいものではない。その原因が自分にあるのだとしても。
「もう、いいよ」
伝える前からこちらの言わんとしていることがわかっている。それでも、きちんと言葉にして伝えなくてはならないことだから。
「そうか」
大事な話があるからと、場所を移した。
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