レンズの向こう
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空いた皿を片付けるからと椿の後を追うようにヤエも台所へと姿を消した。何となしに視線をそっちに向ける。
―――シキ、椿に声かけたんだね。珍しいじゃん。シキが他人誘うなんて。
数日前、ヤエに電話口で告げられた言葉。
―――うん。行くよー。だって椿もいるんでしょ?なら良いじゃん。それとも椿は良くて、オレはダメなの?
それじゃまるで特別みたいじゃないか。そんなんじゃないと証明するように、途中で出くわせた月都を連れてきた。
理由なんてない。ただの気まぐれ。ただ何となく傍にと、それだけのこと。
月都からしてみりゃ知らない奴ばかりなので、所在がなくなるかと思った。が、椿がいる。椿も、月都の相手をしてりゃ、サキやヤエに構う暇などなくなると踏んでいた。
ソファの様子を見る。
月都はサキの膝の上に抱えられ、逃れようともがいていた。
すっかり打ち解けている。
だから今、椿は台所でヤエと二人きり。
だったら何なんだ。来たばかりの時もそうだった。コーヒーを用意して戻ってきたと思ったら、ヤエの手伝いをするからと言い出して。
声をかけるどころか、視線を向けもせずに。テーブルの下の手を、ぎゅっと握りしめる。
チラチラとこちらを気にしていたのには気づいていた。それを小気味良く思っていた。けれど、目が合いそうになるとそらされて。
目に入るのは、いつもと違う眼鏡をかけた顔。
トメが、サキにそろそろ離してやれと言っている。サキが、暴れる月都に何か囁きかける。おとなしくなった月都が、振り返りサキと会話する。その様子を、悟が落ち着きなく窺っている。
見慣れぬ姿の椿は、今は台所でヤエと二人きり。親しげに話す光景が浮かんで消える。
カタリと、立ち上がった。
「………シキ?どうした?」
眉をひそめた悟の問いに答えず、台所に向かう。
「ヤエ」
「ん?あれ?シキだ。何?」
「そこ、代わるから悟構ってやれ」
「うん?」
「サキに放置されて、いじけててうぜぇ」
「あー…、もー仕方ないなぁー悟ってば。じゃあちょっとお願いね」
水を止め、手を拭いたヤエと入れ違いに流しに向かう。すれ違う瞬間、おかしそうにクスクス笑っているのが気にかかった。
洗うのは大皿が数枚だけ。すぐに終わってしまうと思いながら、スポンジを手にとった。
椿は隣でボウルの中の卵を解いている。一度だけこちらを見てそれきり。黙々と手を動かす。
解き終えた卵をトレイに流し込み、厚切りの食パンを浸す。フレンチトーストかと眺めていたら、椿の動きがピタリと止まった。
手には使い終えたボウル。
流しは今、オレが使っている。
「ん」
「………ありがとう。すすぐだけでいいから」
ざっと軽くすすぎ、渡す。受け取ったボウルを拭き、今度は粉やら何かを計り始めた。
「………まだ作るのか?」
「うん。ヤエがケーキ食べたいって」
そう言った椿の手にはニンジンが。
「………キャロットケーキか?」
「………うん………何となく」
シャリシャリとニンジンをする音を聞きながら洗い物を終える。水を止め、手を拭き、後は皿を拭いてしまうだけ。
けれど手を止めて、椿の様子を眺める。
「………眼鏡」
「ん?」
「代えたんだな」
見覚えのないそれは、台所に向かう前にかけていたのとは違う物。
「うん。ヤエが交換しようって」
手元のニンジンを見つめるその横顔には、やはり馴染みのない眼鏡。その奥にある瞳はこちらに向かない。
慣れない姿は、落ち着かなくさせる。せめて描くことができれば違うのだろうが、今、ここには紙も鉛筆も何もない。
無言でひたすらニンジンをする横顔。その顔に、手をのばした。
気配に気づいた椿が振り向く。ようやくこちらに向けられた眼差しには、困惑が見てとれる。それに気を良くし、眼鏡の縁に触れた。
僅かに落胆の色が浮かんで消えた。それでも、息を詰めたようなまっすぐな視線を向けられて。
髪を、頬を撫でるようにそっと眼鏡の縁をなぞる。見つめる瞳が揺れ、不思議と充足感を得る。弦に指をかけ、ゆっくりと眼鏡を外した。
言葉はなく、見つめ合ったまま。椿は身動ぎ一つせず、大人しくされるがままになっていた。
レンズ越しではない眼差しは、戸惑いのような不安のような色が浮かんでいて。もっと見ていたいような、別の色に変えてしまいたいような気持ちが込み上げる。
やがて不意に椿が顔を伏せ、瞳が視界から消えた。
「………何?」
カタリと、眼鏡を脇に置く。調理台に向き直ってしまった椿を、残念に思いながら答えを探す。
「………いや…見慣れねぇから」
「え?ずるい」
「あ?」
「あ」
急に振り返った椿は、けれどすぐに慌てて視線を戻す。
「ずるい?」
ちらりとこちらを窺い、ボウルに視線を落として口を開いた。
「………オ…レだって、シキが眼鏡かけてるの、見慣れなくて落ち着かないのに」
視線が合いそうになるとそらされていた理由はそれか。
己の口許に、笑みが浮かぶのがわかった。
「なら、外しゃ良いだろ?」
「え?」
「ほら」
ほんの少し、頭を下げる。意図を理解した椿が視線を泳がせる。その姿勢のまま待てば、やがて観念した椿が手を軽く拭い、向き直る。
ゆっくりとのばされた両手は、間近まで来て一瞬止まった。髪や肌に触れてしまわぬよう、慎重に眼鏡を摘まむ。微かなニンジンの香りが鼻を擽った。
緊張を含んだ真剣な眼差しが向けられている。まるで神聖な儀式かのように。
隔てとなるレンズが僅かに持ち上がり、遠ざかっていく。耳の上を滑る弦の感触。
じっと見つめ合ったままゆっくりと眼鏡が外されていく。
そういや、こうやって手をのばされることなどなかったのだと気づいた。離れていく手を惜しく思う。髪に、肌に触れればいいのにと。
やがて、眼鏡が抜き去られる。
レンズ越しではない姿。真っ直ぐに見上げてくる瞳。両手で眼鏡を持ったまま、見つめ合ったまま椿がふんわりと嬉しそうな笑みを浮かべた。
自然と手は動いていた。まるでそうするのが当たり前のように触れようとし、けれど電子音が響く。
指定の温度に達したことを告げるオーブンの音。弾かれたように椿がそちらを向き、台所に満ちていた奇妙な空気は霧散した。
触れることのできなかった手を、そっと握りしめる。またおあずけだ、と訳のわからないことを思いながら。
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