魚のミイラ
現金なもので、いなくならないかもしれないと思ったら詮索する気は失せた。気になると言えば今だ気になるが、気にしても良いのだと思えばそれだけで満足してしまった。
下手に焦りたくはない。今の距離感が心地よいから、壊したくないのだ。
何より、訊いて答えられるよりも、自分から話してほしいという欲が生まれた。
もちろん、いなくなる云々というのは昔話の中の話であって実際にはそれこそ全く関係のないことではある。それでも、重ねて考えてしまっていたせいでうまく切り離すことができない。
だから、いつか自分から話してくれればと。いつか出ていってしまうという事実には蓋をして。
スケッチブックの紙を一枚捲る。そしてまた鉛筆を走らせる。早朝の寝室。ベッドの端に腰掛け椿の寝姿を描く。こちらに背を向け眠っているため、表情は見えない。
静かな部屋の中に、鉛筆を滑らせる音だけが響く。
ふいに、椿が小さく身動いだ。起きたのかと手を止め眺める。しばらく待ってみたが、微動だにしないので、やっぱまだ寝てるのかと紙に視線を戻そうとしたら寝返りをうった。
瞼は開いているが、見上げてくる眼差しは夢うつつのまま。ぼんやりと、それでも外れることなく真っ直ぐに見つめてくる。
眼は、離せなかった。
黙って見つめ合うことしばし、先に口を開いたのは椿だった。
「………シキ?」
「ん?」
「………いた」
「板?」
「……よかっ…た…」
花が綻ぶように、ふんわり笑うと再び瞼を閉じて寝入ってしまう。徐々に、言葉の意味を理解していき胸が詰まされる。
確かに、共に眠るようになってからいつも先に起きていた。待つ間が落ち着かず、半ば逃げるように外に出ていた。
だから、寝起きに顔を合わせることはなかったけれど。
今、目覚めのその時に傍らにいたことを喜んだのだとしたら。それだけで、あの笑みを浮かべたのだとしたら。
そこまで考えて、詰めていた息をゆっくりと吐き出す。
何をバカなことを。寝惚けていただけ。意味など何もないに決まっている。スケッチブックを閉じ、腰を上げた。
リビングでコーヒーでも飲むか。椿が起きてくるまで。
「腐敗しない死体」
それがミイラに対する椿の答えだった。
「もしくは永久死体」
寝室から出てきた椿の第一声はあ、いた。だった。いちゃわりぃかよと返せば不思議そうに首をかしげる。少ししてどこか困惑した様子で首を横に振った。それから洗面所に。
戻ってきた椿は何か言いたげにしていたが、結局おはようと朝の挨拶だけをして台所に入った。
そして朝食の席。
何となしにセンパイとの会話を思いだし、話を振ってみた結果。
「………腐敗しない?」
「うん。腐敗しないよう乾燥させた、または乾燥した結果腐敗しなくなった死体……だよ」
確かにミイラが腐ったという話は聞いたことがない。ミイラにしろ干物にしろ保存が目的なのだから腐敗してしまえば元も子もない。何百年も前のミイラが綺麗な状態で残っていることを考えれば永久死体という呼び方も納得できる。
だが、
「乾燥させたと乾燥した結果ってどっちも乾燥させたんだろ?」
わざわざ並べて口にしたのだから、意味はあるのだろうが。
「んー…人工物と自然物があるから」
そういうことか。
「元々は防腐処理に使っていた薬が語源になってるみたいだけど、今は乾燥させた死体全般のことを言うみたい」
「本来なら即身仏なんかも違うのか」
「そうなるね」
薬品が語源になっているならば、自然乾燥させたものをミイラと呼ぶのはおかしいはずだ。まぁ、結果は同じだから問題もないのだろうが。
「ん?アイスマンは?」
あれは氷の中にあったのだから乾燥しているわけがない。やっぱミイラとは違うのか。
「あー…、ウェットミイラ?」
「あ?」
「脱水処理してないミイラ……だったかな?腐敗しないって点では同じだから」
乾燥云々ではなく腐敗しない、永久というくくりになっているのか。
「イタリアにある有名な女の子のも、本来は死蝋だけど美しいミイラって呼ばれてるし」
確かにそんなようなことを言っていた。適当に聞き流していたからきちんとは覚えていないが。
記憶を手繰り寄せようとしていると、椿がじっとこちらを見つめてきた。
「何だ?」
「……ううん。シキ、こういう話に興味あるんだなって思って」
「……いや」
気にはなったが興味があるというほどではない。だが、どこで誰とこの話をしていたのか説明するのは躊躇われる。
「……それより、干物は?」
白米に視線を落としつつ、強引に話を変える。けれど椿からの返答はなく、訝しく思い顔をあげると気まずそうにしていた。
「……椿?」
「……このミイラの話は学校の先生に教わったんだけど」
「ん?」
「その時、ついでに食べられるミイラをって」
「………」
「干物の作り方講習が始まった」
箸を止めた椿がじっと見つめてくる。その僅かに困惑した表情を、同じように箸を止めじっと見つめる。
「………作ったのか?学校で」
「………うん」
「………魚、あったんだな」
「………うん」
作り方の説明だけでなく実際に作ったのか。つーか用意してあったならついででも何でもなく最初からそのつもりだったんだろうに。
「………まぁ、おいしかったけど」
「食ったのか」
「………うん。ご飯と一緒に」
そりゃ、作ってそのまま放置というわけにもいかないのだろうが。一体どういう授業をしているんだ。
「家で作ってみたら、カラスに持ってかれたけど」
「………家でも作ったのか」
「うん。学校で作ったって話したら、未紗さんがやってみたいって」
奇妙なことに興味を持つ。サキの姉だけあるなと、見たことのない、だが度々名前の出てくる人物を思い嘆息した。
どうせ同じ干すなら魚より柿の方が良い。
「シキ」
「ん?」
「食べたい?魚のミイラ」
「………いや」
その言い方は食欲を削がれる。
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