モヤモヤ
台所では椿が一人調理台に向かっていた。見慣れた光景のはずが、場所が違うというだけで妙に座りが悪い。
こちらに気づいた椿が不思議そうにしたので、飲み物を取りに来たのだと告げればあぁと納得した。その際に見せたわずかな笑みに、心休まる。
インスタントのコーヒーをいれ、手近な壁に寄りかかり後ろ姿を眺める。リビングに戻る気は起きない。
ぼんやりと、立ったままコーヒーを傾ける。スケッチブック、持ってくりゃよかった。悟から、適当なノートでも奪ってこようか。けれど、何故だか今はここを離れたくない。
「………何?」
「いや……邪魔しちゃ、わりぃだろ?」
心にもない言葉を、言い訳のように使う。悟はむしろ今、二人きりにはなりたくないようだったが、関係ねぇ。
納得したのかしてないのかわからないが、深く突っ込まれても答える気はない。ただ何となく、ここにいたいだけなのだから。
カップを脇に置き、椿の隣に並ぶ。
「……パスタか?」
「うん。サエさんのリクエストで」
「こっちは……サラダか?」
「うん」
「なら、切っちまうな」
「え?」
袖を捲り、手を洗う。
「………手伝ってくれるの?」
「暇だからな」
包丁を握り、野菜を切り始める。椿が手を止めて、じっと手元を見つめていた。
「どうした?」
「………何か、すごく変な感じ」
落ち着かなさそうな様子に、気分が良くなる。そっと笑みを浮かべた。
「……そう言えば、シキって自炊してたんだよね?」
「あ?ああ」
「一人暮らしって、高校から?」
「いや。……あぁ、いや。似たようなもんか」
「ん?」
首をかしげて見上げてくる椿。こちらも、手を止めてじっと見つめた。
「お前と同じだ」
「同じ?」
意味がわからないという顔をしている。気づかれぬよう、喉の奥で笑みを堪える。
「高校ん時、しばらくここに厄介になってたんだ。で、宿代替わりに飯作ってた」
「ここって、ここ?」
「ああ」
いた期間は長くない。高校の終わりごろ住み着いて、卒業と前後して一人暮らしを始めた。ちょうどその頃、ヤエもここに居座り始めていて、鬱陶しかったのも出ていった理由の一つだ。
自分の寝起きする空間に、他人がいるのが堪らなく嫌だった。
「……同じだろ?」
「……そうだね」
穏やかな表情で微笑みかけてくる椿に、何かが満たされるような気がした。僅かに、傾いた首。さらりと、揺れた髪。
自然と、手が動いていた。
「シキ!」
「………あ゛?」
艶やかな髪ではなく、微かな笑みをのせた頬に手を伸ばしかけたところで、悟のでかい声が邪魔をした。
「いつまでかかってるんだ」
盛大に顔をしかめた悟が台所に入ってくる。
「………何してたんだ?」
「………見りゃわかんだろ」
まな板の上を示せば、ますます眉間にシワを寄せた。面白くなさそうな顔をしているが、面白くないのはこっちだ。
もう一度、包丁を握り直して、けれど椿に遮られる。
「シキ、こっちはもう大丈夫だから」
邪魔かと問いかけたかったが、困ったように首をかしげる仕草に、そうではないことが知れる。
「向こうで待ってて」
重ねて告げられ、つい首肯してしまった。わずかに安堵した雰囲気に、安心するが何やらモヤモヤする。
よくわからない苛立ちをぶつけるように、悟を睨み付けた。
「つーか何しに来たんだよ、お前」
「……遅かったから、気になったんだ」
遅かったら何だってんだ。いつもなら、どこで何をしようとも気にかけないくせに何故今日に限って。
息を吐き出し、仕方なしに包丁を置く。そこでまた、別の声が割り込んできた。
「んなとこで揃って何してんの?」
悟の背後からひょっこりとサキが顔を出した。その瞬間に悟の肩がびくりと震える。
「っサキちゃん!」
「あはは、ごめんごめん」
笑いながら両手をあげて降参のポーズ。何をやっているんだこいつらは。
サキがざっと台所内の様子を見回す。まな板に添えたままだった手に視線を留めると、目が僅かに細まり、次いでふっと意味ありげな笑みを浮かべた。
「何?シキ、椿の手伝いしてたの?」
「……だったら何だよ」
「別に?あ、なんだったらあたしも手伝おうか?」
「それはダメだ」
「それはやめて」
パンッと手を打ったサキの言葉に、椿と悟が間髪をいれずに拒否した。どんだけ絶望的なんだ。
拒否された方といえば、こうなるとわかっていたのかただ笑っているだけ。本気で手伝いを申し出たのではなく、単にからかっただけのようだ。
「あはは、まぁいいや。ほら悟戻るよ」
サキに肩を押され、悟が台所を出る。何となくその様子を眺めて、ふと椿を見ると視線が合った。
「サエさんの話し相手になってあげて」
「…………」
うやむやままここに残ってしまおうとしていたのに。
ため息を一つ吐いて、二人の後に続いた。
「…………邪魔しやがって」
「邪魔って、何の?」
つい零れた言葉をサキに拾われる。軽く睨み付けても気にする素振りはなく、まるで全てを見透かしているかのような視線を向けられた。
「…………」
答えようと口を開きかけ、けれどすぐに閉じる。言葉が出てこなかった。何となくの言葉。自分でも、何に対する邪魔なのかわからない。
こちらの様子に、けれどサキは笑みを深めただけで答えの催促はしてこなかった。
リビングに戻り、しばらくしてから夕食の準備が整った。この面子での食事というのはかなり微妙だが。
食事が終わり、悟はそそくさと逃げるように書斎にこもった。仕事があるからどうのと言って。帰る時は声をかけなくていいと。
何となく、手持ちぶさたで、片付けを手伝おうとしたら椿に遠慮された。モヤモヤしたまま、ソファに腰かける。
「お前、何かあったのか?」
「へ?」
テレビを眺めていたサキに問いかければ、間の抜けた声をあげた。
「何いきなり」
「…………椿がやけに気にかけてんだろ」
「あー……」
心当たりがあるのか、視線を泳がせる。
「まぁ、でもお互い様だよ」
ふっと笑みを浮かべたサキが、こちらを向く。その表情はここへ来た時椿に見せたものにどこか似ていた。
「ちょっとトラブってる子がいるんだけど……椿もその子と仲いいから、気にしてるし」
「仲いい?……友達いねぇつってたぞ」
「あぁ、そりゃそうだろうね」
「あ?」
意味が分からず顔をしかめる。笑みを深めたサキが、間を詰めてくる。
「気になる?」
「…………」
無言のまま見つめ返す。そうだとも、違うとも言いたくなかった。
「…………あの子、自分から友達とか思ったりはしないよ」
反応を窺うように、黒い瞳が覗き込んでくる。身動きがとれなくて、紡がれる言葉にただ耳を傾けた。
「相手が友達だって言わない限り、どんなに仲良くなっても友達だなんて認識しない。絶対に」
囁くような、それでいて力強い口調。
「自分に、友達なんてできるわけないって思ってるから」
だから、
「来るもの拒まず、去るもの追わず」
離れられても、それは仕方のないことなのだと、すぐに諦めてしまう。
サキが、ただでさえ近かった距離をさらに詰める。半身が接触し、秘め事を告げるように耳元に唇を寄せる。
まとわりつくような言葉の後に、生暖かいものが耳を這った。
「…………あの子が追い求めているのは、たった一人だけ」
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