Call me
締めたはずの鍵が開いていた。
消したはずの(そもそもつけていなかった)リビングの明かりが、廊下の先でついている。
出るときにはなかった靴が、玄関にある。
どうして。何で。そんなことを思いながら、足早にリビングに向かう。明るい部屋の中、シキがソファに座ったまま寝ていた。
「……帰って、たんだ」
ふらふらと近づき、背もたれに手を置く。
夕方まで、帰ってこないって言ってたのに。真っ直ぐ、大学に行くと言っていたのに。
少しだけ休むために帰ってきたのだろうか。いつ、帰ってきたのだろうか。わかってたら、もっと早く帰ってたのに。泊まりになんて行かなかったのに。
仮眠だとしても、何もかけないまま眠るだなんて。いつも使っている掛け布団を、シキにかける。
それから少しだけ考えて隣に座った。背もたれに半身を預ける。視線は真っ直ぐシキに向けたまま。
何だか、瞼が重たくなってきた。
寝ているシキなんて、初めて見た。そんなことを思う内に、いつの間にか眠りについていた。
夢を、見た気がする
どんな内容かは覚えていないけれど、ひどく暖かい夢。大好きな人がいて、笑いかけてくれて。嬉しくて幸せで、胸が苦しくて。泣いてしまいたくなるような、そんな夢。
目が覚めても、しばらくは頭がはっきりしなくて、まぁこれはいつもの事だけれど、寝転がって瞼を開いたままぼんやりとしていた。
思い出そうとは思わなかった。
ただもう少しこの心地よい微睡みの中にいたいなと思った。
チッチッチッと聞こえる時計の音。静かな部屋。いつも通りの光景。ソファの上に一人きり。
シキはどこにに行ったのだろう。いたと思ったのは夢だったのだろうか。
覚醒し始めた頭の中では、とりとめもないことが流れる。
そもそも、いつの間に眠ったのだろう。横になった記憶も、ましてや布団を被った記憶もないのに。きちんとくるまって寝ていた。
瞼を擦る。
ふと、テーブルの上の紙が目に入った。小さなメモ用紙。見覚えのないそれに手を延ばし、思わず身を起こす。
書かれていたのは十一桁の数列。アルファベットの羅列。そして、連絡しろという、素っ気ないメッセージ。
名前も何もない。
それでも書いた人物など限られていて。
教えてくれたということは、登録して良いということなのだろう。一体どういう気まぐれなのか。今まで必要に駆られたことなどなかったのに。
どうして急に。
けれど理由などどうでもよくて、携帯を取り出しアドレス帳に登録する。
それから携帯片手にメモを眺めたまま首をかしげた。
連絡しろとあるけれど、何の連絡をさせるために連絡先を記したのだろうかと。わざわざ起きたよという報告をする意味もないし。考えてもわからなそうなので、諦めることにした。
ただ、登録した旨と自分の番号だけをメールしておいた。
送信済みのメッセージを確認して、閉じる。すぐに返信が来るわけでもないのに、わずかな期待と共に携帯を見つめる。
志渡さんは、シキは筆不精だと言っていた。充電もよく切らしていると。だから、返信なんていつ来るかわからないし、来ないかもしれない。
だというのに一体何を待っているのか。自分の行動がおかしくて、苦笑が漏れた。きっと、このままだとずっと気にしたまま。
意識的に頭の中から追い出す。洗濯や掃除は昨日終えてしまっているので、するべきことは何もない。それでも、何かしらしようと思い、台所に向かうことにした。
サイレントモードを解除しておいたのに、深い意味はない。
午後、師田先生が作ってくれた課題をやっていると、耳馴れないメロディが聞こえてきた。普段聞くことのない音。
テーブルの端に置いておいた携帯に手を伸ばす。サブディスプレイには登録したばかりの名前。
着信。電話だ。メールじゃなくて、電話。
通話ボタンを押して、耳元に当てる。
「………もしもし?」
聞こえてきた返事は、あぁともおぅともとれる曖昧なもの。いつもより近くで聞こえるその声が妙にくすぐったい。
距離で言えば遠く離れているのに。
短い言葉の後には沈黙が続いた。何か言いたいことがあるような気もしたけど、何も出てこなくて黙って先を待った。
少しして、シキが口を開く。
―――飯、もう食ったか?
「ん?まだだけど」
どこか躊躇うような口調に首をかしげながら答える。次に聞こえたのは、わずかに明るくなった声だった。
―――なら、来いよ
「…………どこに?」
クツクツと楽しそうなそれは何度か聞いたことのあるもの。これで来ればわかるとか言われても困るなと思ったら、今回はきちんと行き先を教えてくれた。
待ち合わせ場所に着くと、電話口とはうってかわって不機嫌そうなシキがいた。その隣にはヤエも。
二人きりだと思っていたから、少し残念で、そう感じた自分に内心で首をかしげた。
「あ、椿だ」
目が合うと、ヤエが顔を綻ばせた。
「ヤエも一緒だったんだね」
「うん」
「違ぇよ」
返ってきた答えは正反対のものだった。
「アハハ。今、偶然会って。何してるのか訊いても全然教えてくれなかったんだ。椿と待ち合わせしてたんだね」
楽しそうに言うヤエとは対称的に、シキはますます顔をしかめた。
「どこ行くの?」
どこ。
指定されたのはこの場所だけだから、この後の行き先は知らない。昼食の有無を問われたから、食事するのだろうけど、決めてあるのだろうか。
「どこでもいいだろ」
「えー、冷たいの。オレ今暇なんだけど」
「だからなんだよ」
「一緒したいな、なんて」
「ふざけんな」
「あ、二人きりが良かった?邪魔なら遠慮するけど?」
「………は?」
シキの眉間のシワが深くなる。その反応にヤエは一瞬呆れたような顔になったけど、すぐ笑顔に戻る。
「てかさ、何でわざわざ待ち合わせなんてしてんの?」
「………大学行ってたんだよ」
「ふぅん?」
うんざりと呟くシキに、ヤエは探るような視線を向けた。いつまでここで立ち話をしているのだろうと考え、ふと違うことを思い出した。
「………そういえば、片付けってもう終わったの?」
「あぁ」
「片付け?」
「昨日、学祭」
「へぇ?椿行った?楽しかった?」
「え?うん」
首を傾けつつ答えると、ヤエの笑みは深くなった。何なのだろうか。
「オレも行きたかったな」
「お前は関係ねぇだろうが」
「えー、椿は関係あって、オレはないのー?」
「こいつの絵、出したからな。当事者だ」
「え?」
ヤエがまじまじとシキを見つめる。
「……何だ?」
「あー…いや、ちょっと驚いて」
「は?」
「何でもないよ。てか珍しいじゃん。シキが人物画なんて」
「あ」
しまったと言うようにシキの顔が歪む。少しだけ、ペースを乱していたヤエが浮上するのがわかった。
「ふふっ、ねぇ……あ、ちょっと待って」
何事かを言おうとした時に小さな音楽が鳴り響き、ヤエが携帯を取り出す。
「もしもし?……え?…あ、いえ…わかりました。すぐ行きます」
物凄く不服だと顔に書いたまま、ヤエは携帯をしまった。
「うーん。ごめん。用事入っちゃった。また今度誘ってね」
「誘ってねぇよ」
はははっと笑って、踵を返すヤエ。その後ろ姿を見送っていると、シキが盛大に溜め息を吐いた。
「椿」
「ん?」
「行くぞ」
「…ん」
どこへ?とは問わなかった。
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