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What's your name ?




 洗濯して、飯食って。課題を少し進めて、日が暮れた。それでも幽霊はまだ目を覚まさなかった。

 本当に、よく寝ている。

 このまま目を覚まさなかったらどうしようか。ソファが使いづらい。けれど、こうやって静かにいるだけなら、あまり邪魔に感じないのだ。

 夕飯を作ろうか、集中できなかった課題をもう少しやろうか。考えつつ、テーブルの上に座り、手にしていたスケッチブックを脇に置いた。頬杖をついて、なんとなしに寝顔を眺める。

 最初に見つけた時とは異なり、印象がひどく希薄だ。時折、忘れ去ってしまいそうになるほどに。さすがは幽霊。存在が幽かだ。

 年は桜子と同じか少し前後するぐらいだろう。クッションを抱き込むようにして、丸まって寝ているため幼く見える。額のタオルは床に落ちていた。

 運び込んだときの、苦しそうな呼吸ではなく気持ち良さそうな寝息をたてている。

 あんな時間にあんな場所で傘もささずに何をしていたのだろうか。本当に幽霊のようだった。肝は冷えなかったが、鳥肌は立った。

 あの時の、空気を一瞬で変えた眼差しが脳裏に浮かぶ。もう一度見てみたい。あの絵を。

「…………残念だな」

 こいつが起きたとしても、あの絵をもう一度見ることは叶わない。それをひどくかなしく思う自分がいる。

 同じ構図を作ることはできても、全く同じものにはならない。あの瞬間にのみ見ることができた絵。

 厄介なものを拾うはめになって、不運だと思った。ただ、あの絵を見れたことに関してだけは、ひどく幸運だった。

 薄闇の中、灯りもつけずにぼんやりと考える。

 今この場にあるのは一枚の絵ではない。猫を拾ったわけでも、ましてや幽霊にとりつかれたわけでもない。目の前にいるのは、名前も知らない一人の人間。本来ならば到底この場にいるわけなどない、赤の他人。

 この家の中で、確かにこいつは異物であるはずなのに、ずっとここで暮らしているかのように熟睡しきっている。

 枕が変わっても寝れるのか。

 目を覚ました時にはどんな反応をするのだろうか。それが少し楽しみでもあり、もったいなくもある。

 ……………………

 …………ん?もったいない?

「…………ん」

 自分の思考に奇妙な違和感を覚えた瞬間、微かな声が聞こえた。

 幽霊がわずかに身じろぎ、そうしてようやく長い眠りから覚めた。ゆっくりと瞼が開き、目線が合う。

「……………?」
「おはよ」
「……おは…よ?」

 軽く声をかけると、返事があった。

 覚醒しきっていない瞳は、焦点があっておらず、おぼつかない。昨夜のあの鋭い眼差しを向けた奴と同一人物にはまるで見えない。

 その落差があまりにおかしくて、自然と笑みがこぼれていた。そのことに自分で驚いたが、不快ではない。奇妙な高揚感に身を任せることにした。たまにはこういう感覚も悪くない。

 頬杖を外し、まっすぐに見つめる。幽霊はクッションからわずかに頭を上げ、小さく首をかしげていた。

「水、飲むか?」

 ふるふると首を振り、そしてまたじっと見つめてくる。夢から醒めきっていない、あどけない瞳で。

「…………だ、れ?」

 たどたどしい問いかけに、名乗りを上げる。頭が再び、ぽすんとクッションに沈んだ。

「……シ…キ…?」
「ああ。お前は?」
「…………」

 返事は、ない。言葉が脳に届いていないのか、ただぼんやりとこちらを見つめてくるだけ。

 静かに反応を待つ。

 ふいに、視線が外れた。答えをごまかそうとしているわけではなく、周りの状況を確認するために。

「…………つ…ばき」
「……つばき?」
「椿」

 視線は外れたまま、それでもしっかりとした声で、噛み締めるように名前を告げる。そこで限界を迎えたようだ。重たげな瞼がゆっくりと閉じていく。

 つかの間の覚醒。ようやく判明した名。

 夢の中に引きずり込まれたかのような感覚に陥っていた。

「……椿、か」

 傍らに放置していたスケッチブックに目を落とす。開かれたページにはちょうど雪を冠した真っ赤な寒椿が描かれていた。





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