ご招待
読んでいた本から顔を上げる。ベランダの外はすでに薄暗くなっていた。横を見れば、イスに座ったシキがスケッチブックに鉛筆を走らせている。
いつもの風景。
出掛けるようなことを言っていたくせに、腰を上げる気配は一向にない。忘れているのだろうか。
ならばこのまま何も言わなければ、ずっといてくれるだろうか。
少しだけずるいことを考えた。
「………シキ」
「ん?」
「出かけるんじゃなかったの?」
顔を上げたシキが時計に目をやる。何故か嫌そうに顔をしかめる。
「あー………そろそろか」
そう言いながらも、立ち上がる気配は全くない。どうしたというのだろうか。
「シキ?」
「………いや」
めんどくさそうにため息をつき、ノロノロとスケッチブックを閉じて立ち上がる。その動作を何となしに眺めていると、目が合った。
「行くぞ」
「………………え?」
「早くしろ」
早くと言いつつもそもそも自らの動きが遅い。
それよりも、オレも一緒にということなのだろうか。一体どこへ?リビングを出るシキの後ろ姿を見る。訊ねてもきっと答えてはくれないだろう。
本を閉じ、立ち上がった。
エレベーターに乗り込むと、一階ではなく上の階のボタンを押した。本当にどこに行くのだろうか。
彼女とデートなのだとばかり思っていたのだけれど。それとも、シキの彼女は同じマンションに住んでいるのだろうか。そして今、その部屋に向かっていると。
それはなんか嫌だ。
部屋の前に辿り着くと、シキは心底嫌そうにため息をついた。そんなに嫌なら連れて来なければ良いのに。
表札には‘九頭竜’と書かれている。どこか聞き覚えがあると記憶を辿っていると、シキがインターホンを押した。
―――はい
「………………オレだ」
聞こえてきたのは若い女性の声。シキが短く答えるとガチャンと切れる音が聞こえた。
ほどなくして、ドアが開く。
「遅かったな」
出てきたのは、シキがマンションのエントランスで一緒にいた子だった。
その子がこちらを見た。
「……こちらが?」
「………あぁ…椿だ」
ふっと、唇の端に笑みをのせる。その表情は少しだけシキに似ていた。
「初めまして、椿。私は九頭竜桜子という」
「初めまして……九頭竜って…」
思い出した。月都の名字だ。と、いうことはもしかしてこの子は……
「あぁ、月都は私の弟だ。さぁ、あがってくれ」
促されて中に入る。シキは不機嫌なまま。状況がわからないけど指示される通りにイスに腰かける。
少し待っててくれと言い残し、桜子がおそらくはキッチンへと移動した後、月都が姿を現した。
「えっと、ごめん」
何が?と思ったが、シキには伝わったようでペシリと月都の頭を叩いた。
「う〜…ごめんってば。でも逆らえるわけないだろっ」
一人だけ蚊帳の外みたいで少し面白くない。
「……何があったの?」
申し訳なさそうな月都の言うことには、月都が母親と姉にオレのことを話して、一度会っておきたいと食事会を開くことになったとか。
「あの二人に問い詰められたら、白状するしかなくて……」
「……そもそも、別に隠すようなことでもないんじゃない?」
何となく思った疑問をそのまま口にすると、何故か二人にじっと見られた。
「そ、そりゃ…口止めされたわけじゃないけど…でも、言わない方が良いのかなって…」
違ったのか?とシキの様子をうかがいながら話す月都に、シキは面倒くさそうに息をついた。
「……どうせ遅かれ早かれこうなったんだ。気にすんな」
返事になってない。
けど、どうやらわざわざ隠すまでではないけど伝えるつもりもなかったようだ。ただ単に面倒なだけか。それだけにしては少し釈然としないけれど。
そんなことを考えていたら月都が奇妙なことを口走った。
「で、でも、椿ってシキの大切な奴なんだろ?」
「………………は?」
「………………あ?」
「え?」
オレとシキの反応を見て、月都がポカンと首を傾げた。
「大切って…何?」
「え?……あれ?」
「お前、何言ってんだ?」
「え?……だ、だって、え?違うのか?」
シキと顔を見合わせる。呆れ果ててため息が溢れた。
「そんなわけないでしょ」
「え?でも、だって」
「何でそうなんだよ」
「だって、え?あれ?」
おろおろとしている月都の頭の上に手を置き、軽く叩く。
「月都は変なことを考えるんだね」
「え?あれぇ?」
「お前、そういう風に言ったのか?」
「いや、一緒に暮らしてるとだけだけど…」
軽く四面楚歌みたいな状態の中に、別の声が割り込んでくる。
「二人とも、あまり馬鹿だからといってうちの愚弟をいじめないでくれ」
はずしたエプロンを腕にかけて近づいてくる。
「馬鹿だと事実ばかりを述べてやってはふてくされるぞ」
あまりフォローになっていない。
「なっ…」
「桜子、呼び出した張本人はどこだよ」
文句を言おうとした月都を遮り、シキが問いかける。悔しそうに口を閉じてしまった月都の頭を、以前のシキを真似して撫でてみた。
「あぁ、母は仕事で遅れる」
「……文句言っといてそれかよ」
「母からは連絡があった。シキからは連絡がなかった。その差だ。」
シキが押し黙る。
何となく、物珍しくてその光景を眺めていると桜子と目が合った。
「椿は高校生か?」
「…え?うん。一年」
「ほぅ?私も一年だ」
「あ、そうなんだ。……今日はお招きいただきありがとうございます」
よくわからないまま連れてこられたけど、月都の話を聞く限りではどうやら夕食に招かれたようだった。
「いや、招いたのは母だからな。礼なら母に言ってくれ」
「お母さんはお仕事?」
「あぁ、もうじき帰って…」
玄関の方を向きながらいう台詞が途切れる。ガチャリとドアの開く音。次いで、ただいまと言う声。
それを聞いた途端、桜子の表情が明るくなり玄関に駆け出した。何事かとシキに視線のみで訊ねると面倒くさそうに答える。
「……あいつ、マザコンなんだよ」
複雑そうな月都の表情もそれを肯定と示している。
どちらかと言えば、好感が持てるのだけれど。
「お、揃っているな」
娘の肩を抱くようにして入ってきた女性は、予想以上に若くて首をかしげてしまった。並んでいる姿を見ても、年の離れた姉妹にしか見えない。
顔立ちは、少しだけ月都と似かよってるなと眺めていたら、徐に月都に抱きついた。
「月都、ただいま〜」
「う…あ…」
月都が気まずそうにシキとオレとを見比べるが、やがて観念して消え入りそうな声でお帰りと言うと抱擁は解かれた。
「シキも久しぶりに……」
「断る」
腕を広げる女性に対し、シキはテーブルの上に頬杖をついたまま顔を向けもせずに即答した。断られても、女性は楽し気に笑っている。
何となく、これが日常風景なのだとわかった。
「貴方が椿くん?」
「あ、はい。初めまして」
立ち上がり、頭を下げる。
「私は九頭竜夢子。桜子と月都の母親ね。今日は突然お呼び立てしちゃってごめんなさい」
「いえ、こちらこそお招きありがとうございます」
「よし、じゃあお近づきの印に熱い抱擁を一つ」
「え?」
「おい」
シキの制止は無視され、抵抗するまもなく抱き締められていた。
背に回された腕の強さに、包み込まれる暖かさに、少しだけ涙が出そうになった。
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