凍てつく風
コートを身に付け、出かける支度を整えた椿が戸惑いがちに口を開く。
「……じゃあ、ちょっといってきます」
「ああ」
「なるべく、早く帰ってくるから」
「いや……ゆっくりしてこいよ」
早く帰ってこいと思いながらもそう告げれば、椿は曖昧に首をかしげた。
どこで誰と会うのかは聞いていない。ただ、今日この日にということは、相手は付き合っているやつなのだろう。椿はチョコを受けとる側で、椿に渡す奴もきちんといるのだから。
行くなと言ってしまいたいところだが言えるわけなどない。そうして見送り、ただ一人きりで帰りを待つ。
部屋にこもり、筆を握った。毛先に絵の具をつけ、紙に色をつけていく。息を止め、線を引き、それをひたすら何度も繰り返す。
音はなく、時の流れも消え失せ、ただ目の前の絵にサシで向かい合う。腕を動かす。線を引く。少しずつ、近づいていく。少しでも、望むところに近づくようにと。
使う色はほぼ白と黒のみ。それを混ぜ合わせ濃淡をつけていく。わずかばかりの青や緑、赤を足し色合いを変え。肌の色も、暗がりのせいで明るくはない。ただ、身に付けた着物と地面に散らばる白だけが淡く浮かび上がるように。
腕を動かす。
線を引く。
線が重なりあい、面になっていく。
息を潜め、神経が高ぶる。
もう少し、あと一息とひたすらに。
そっと、撫でるように髪を描き、触れる時のように手の先までを。白魚のようにとは言えない手。わずかに荒れて、けれど最近は大分よくなってきて。毎晩、触れている。その感触を、形をしかと覚えるように……
―――たった、一人だけ。
筆が止まる。
深く息を吐き、筆を置く。集中が切れた。体勢を変え、瞼を閉じる。もう一度、ゆっくりと息を吐く。身体がへんに凝り固まってしまい、痛い。
不意に脳裏を過ったのは、サキの台詞。どうして今さらまた。いなくならないならいいと、そう思えていたはずなのに。
もうすぐ、だからだろうか。
タイムリミットは刻々と近づいてきている。それが、いつなのかはわからないが。
コーヒーでも飲んで一休みしよう。そう思い立ちリビングへ行くと、窓の外はすでに日が沈みかけていた。そういや、今日は一歩も外へ出ていない。せめて風にはあたるかとベランダに向かう。
開けた途端、冷たい風が滑り込み、ふわりとカーテンが舞う。目を細め、空の色を眺める。
描くとしたらどのようにしよう。色の名前を呟き、想像の紙に重ねていく。静かな色のグラデーション。遠くに、鳥影が見える。
ガチャリ。
聞こえた音に振り返る。帰宅した椿が立っていた。目があうと、小さく首をかしげ近づいてくる。
「……ただいま」
「……ああ」
答えながらも、意識はその顔に奪われていた。わずかに赤く腫れた左頬。小さな引っ掻き傷も見てとれる。
「どう、したんだ?」
「ん。ちょっと。……ひっぱたかれちゃって」
申し訳なさそうに、けれどどこかスッキリと椿が微笑む。
ひっぱたかれた。
赤い頬。小さな傷跡はすでにかさぶたになっていて。触れるだけで剥がれてしまいそうで。ゆっくりと、手をのばす。
「別れて、きたんだ」
デジャビュウ。
前にも、こんなことはなかったか。その時とは、立場が逆になっているが。
椿の眼が、優しく笑む。鼓動が速くなる。あの時、自分が別れたのは。それを、椿に伝えた理由は。まだ、自覚はしていなかったけれど、センパイより椿を選んだからで。それを、知っていてほしかったからで。
なら、椿は。
椿はどうして別れてきたのか。どうしてそれを。
指先が頬に近づく。もう少しで、傷に触れる。
「……他に、好きな人ができたから」
手が、止まった。
「振り向いてもらえないのは、わかってるけど。でも、だからそのチョコはもらえないって」
そう言ったら泣かせちゃったと、椿が眼差しをふせた。
触れずに止まった指先を、ぐっと握りしめて下げる。すっと、視線を椿からそらした。部屋の隅、リビングとダイニングを分けるために置かれた棚の、一番下が目に入る。今はそこの一画に、椿の私物が纏められていて。
「そう、か」
「うん」
また、だ。
やっぱり結局こうなるのかと、諦めが胸を占める。どうしていつも、別の奴を見ているのだろう。今回は、その姿に眩しさを感じた訳ではないのに。それでも、その眼差しがこちらに向くことはないなんて。
最初から、わかっていたこと。
相手がいようといまいと、関係ない。椿が、同性にそういった想いを抱くわけなどないのだから。望みはないと、知っていたじゃないか。
好きな相手ができたと、想う相手がいるのだと教えられた。いっそ、知らないままでいられたらなんて。共に過ごせるのは、後少しだけなのだから。
振り向いてもらえないと、椿は言う。
なら、とっとと諦めてしまえばいいのにだなんて。他人のことをとやかく言える立場じゃないのに。何が変わるわけでもない。それでも、椿の心に誰かがいるのが気にくわない。
一体、どんな人物なのか。気にはなるが、知りたくない。椿の心を奪う奴など。
振られてしまえば、慰めるふりをしてつけこめるかもしれないだなんて、そんな卑怯なことを思う。つけこんだところで、椿の気持ちが手に入るわけでもないのに。
椿の視線は僅かに伏せられたまま。どんな表情をしているのかはよく見えない。
オレにでさえ、時おりとてつもなく嬉しそうな笑顔を見せるのだ。その相手には一体どんな表情を見せるというのか。いつだったか、カーテン越しに見た姿を思い出す。
いや、あれは憧れだとはっきり言っていた。だから違う。
「……シキ」
「……あ?」
不意に声をかけられ、我にかえる。ようやく視線をあげた椿が、困り顔で笑みを浮かべていた。
あぁ…嫌だ。誰かを想ってこんな表情をしているだなんて。
「コーヒーいれてくるけど、シキもいる?」
「………ああ。頼む」
「ん」
そういや、一休みしようとしていたのだった。
椿は短く答え、背を向ける。一度コートをかけに行く後ろ姿を、黙って見送った。
ベランダの戸を閉めて、ソファに腰かけ待とう。そう思うのに、身体がなかなか動かない。手を、強く握りしめる。
冷たい風が入り込む。カーテンが舞う。心が、凍える。
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