道行き
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まったく集中できない。
ぼんやりと、絵の中の椿を眺める。その手から目が離せない。感触が鮮やかに思い出される。
気になって、触れたくて仕方がなくて。他の奴が触れてるんだから、自分だっていいじゃないかと言い訳して。無理矢理口実作って。
一度、思う存分触れれば気がはれるんじゃないかと。その感触を覚えられるように、覚え込ませるように触れた。それが、逆効果だった。
焼き付いて離れない手の感触。全然、満足できない。足りない。もっと、触れたい。
もう、一度触れている。本人の意識ない時を含めれば二度。嫌がれはしなかった。なら、また触れても拒絶されることはないんじゃないかと。受け入れられるんじゃないかと、考えてしまう。
そんなことをすれば、もっともっとと歯止めが効かなくなるだろうに。
ため息をこぼす。
何をやっているんだ一体。
傍にいるだけで、描けるだけで良かったはずじゃないか。それを、そんな。
ゆっくりと頭を振り、立ち上がる。これ以上絵に向かっていても描ける気がしない。立ち上がり、部屋を後にした。
リビングでは椿が勉強していた。ジャケットを着込み、それから声をかける。
「椿」
「ん?」
「少し出かけてくる」
「わかった」
リビングを出ようとして、ふと足を止めた。振り返ると、気づいた椿が不思議そうに首をかしげる。
「………来るか?」
「………行く。ちょっと待って」
考える素振りを見せたのは一瞬。すぐに立ち上がると、手早く勉強道具を片付けコートをとりに走っていった。
支度を終えるのを待ち、外に出る。椿が鍵をしめ、それからエレベーターに向かう。マンションを出たところで、一度足を止めた。数歩、先に行ってしまった椿が振り返る。
「行きたいとこあるか?」
「………ん?」
椿が首をかしげる。さらりと、髪がゆれる。
「行き先、決まってないの?」
「ああ。気晴らしで出たかっただけだからな」
告げれば目を見開き、次いで視線をさ迷わせる。
「椿?」
「あ、ううん。………えっと、じゃあ神社行きたい」
神社。
わかったと首肯し、歩き始める。椿が隣につく。わずかに俯き、髪を一筋だけ摘まみすぐに離すのが視界の端に映った。
その手に注視しそうになり、意識的に前を向く。そらした視線の先に、梅の木があった。
「………梅」
「ん?」
「膨らみ始めてるな」
「………あ、本当だ」
よその家の庭先にある木。なんとなしに目に入り呟けば、椿もそちらに目を向けた。
「………咲いたら、花見行くか?」
「………っ…花見って、桜じゃなくて?」
「ああ」
蕾が綻ぶのはもうじき。その頃にはまだいるだろうと期待を込めて問えば、椿は一瞬言葉を詰まらせた。チラリと盗み見ればすでに前方を向いていて。気のせい、だったのだろうか。
「近くに梅林がある。横通りすぎるだけになるが」
「へぇ」
「少し遠ければ、公園もある。そこには去年描きに行ったな」
「あ、鳥がとまってる絵のやつ?」
「いや。それは梅林の方だな」
タイミングよく鴬が枝にとまり、その光景を目に焼き付け家に帰ってから描いた。その事を伝えれば、椿が感嘆したような声を漏らす。
「どっちがいい?」
「……どっちも、見てみたい」
その返答に、気分がよくなる。
「なら、次の日曜に行くか」
「その頃にはもう咲いてる?」
「咲いてなきゃ、また行けばいい」
花見といっても、木の下にシートをひいて食事したりではない。本当に、ただ見て絵を描くだけ。普段と同じだ。
それでも、椿と出かける口実になるならば。
梅の下に佇む姿も見たい。どのような絵になるだろうか。チラリと隣を見れば、椿と目があった。ふいっと、すぐに前を向いてしまったが。
「………梅、か。……花見はやったけど桜だったな」
「サキの関係か?」
「うん」
クリスマスがそうだったからと訊ねれば、肯定された。サキの関係と言ってはいるが、椿自身も親しいのだろう。
「今年……去年って言った方がいいのかな?に花見した。普段集まってるとこに、立派な桜が一本あって」
「よく集まるのか?」
「うん。お祭り好きの人が多いから。何だかんだ理由見つけては騒いでる。見てて楽しいよ」
その時のことを思い出しているのか、椿の声は明るい。
「シキ、桜は?見に行った?」
「いや。どこも混むからな。それにわざわざ見に行かなくても、そこここで咲いてる」
「そっか。確かに」
人が多くて、ゆっくりとすることができない。桜ならわざわざ見に行くまでもなく、そこらを散歩するだけで目にすることができる。喧騒に近づく気にはなれない。それに、
「……大学の近くに公園がある」
「ん?うん」
「校舎の一部の窓からだと、その公園の桜がよく見えるな」
「桜の絨毯?」
「いや、そこまではねぇ」
話ながら、のんびりと歩く。吹く風は冷たいが、日差しは暖かい。隣から聞こえる穏やかな声に、充足感を覚える。
人混みに出かける気にはなれない。だが、桜との姿も描いてみたいと感じた。その頃にはきっといない。早咲きの桜なら間に合うだろうか。
もうすぐ。椿は出ていく。
それまでに少しでも多く描いておきたい。その筆が進まず、こうして椿と並んで歩いているというのに。そっと、手を握りしめる。
「雨上がりなら絨毯みたいになるよね」
「だな。滑んなよ」
「滑らないよ。………滑ってる人はいたけど」
「ククッ」
拗ねたような言い様に、笑いがこぼれる。
「花筏もいいよな」
「………川に浮かんだ花びらだっけ?」
「ああ」
「見たことない」
「もったいねぇ」
見に行くかと問いかけようとし、止める。
「………まぁ、その前に雪だな」
「雪見?」
「ああ」
「降るかな?」
「降るだろ」
「積もるといいね」
「ああ」
雪景色。もうそろそろ降ってもいいだろうに。ふと、雪女の話が脳裏を過り、苦いものが広がる。
のんびりと、他愛ないことを話ながら歩く。このまま、辿り着かなくても構わないのに。やがて前方に、神社の石階段が見えてきた。見上げれば、青い空を背に赤い鳥居が立っている。
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