クリーム
髪に、手に、背に当たり前のように触れていた。
雑談の最中、見送りの時、千条寺は事あるごと椿に触れていた。スキンシップが好きとの言葉がよくよく理解できる状況だった。
それが目に入る度、胸に苦いものが広がる。
サキや、光太だって触れていたじゃないか。ベタベタと。それと同じだと言い聞かせたくても、あいつらは家族で、千条寺は違う。違うけれど。
思い出されるのは、千条寺が椿に触れる時の眼差し。そしてあのセリフ。好意的なのはいやと言うほど伝わった。あいつがどういう立ち位置にいるのかわからない。弟のようにと、それだけなのだろうが。
大丈夫。ただの友人。千条寺はその言葉に納得してないようだが、椿は同意していない。曖昧に濁しただけ。だから、大丈夫だと自分に言い聞かせる。
それでも、千条寺の手に包まれる椿の手がやけに焼き付いて。いくら振り払おうとしても消えやしない。
当然のように触れていた。椿はそれを受け入れていた。家族ではない、ただの友人のスキンシップを。
どうして、椿の周りはああいう輩が多いのだろうか。
カタリと音のした方を見れば、風呂上がりの椿がリビングに入ってきたところ。一度台所に向かい、水を入れたコップを手に戻ってくる。
隣から香る湯と石鹸の匂いに、一瞬息が止まった。
ゆっくりと水を飲む姿を盗み見る。コップを持ち上げる手。その手が千条寺の手に包まれていた。つられるように、以前サキと手を握りあっていたのを思い出す。
ぼんやりと、椿の手を眺める。
「………シキ?」
「ん?」
問いかけに答えながらも、視線は手から離れない。
「えっと、何?」
「…………手」
「手?」
コップから片手が離れる。手がどうしたのだろう、何かついているのかと、確認するように何度かひっくり返された。
そうじゃない。
指摘する前に、勝手に手が動いていた。そっと、椿の手に触れる。触れた瞬間、わずかに強張った気がしたが、無視してそのまま引き寄せた。
振りほどかれはしない。だから緩くつかんだまま、その手を観察する。肌触りを確認するように、親指で掌を撫でればピクリと動いた。
「………シ、キ?」
「手」
「え?」
「荒れてんな」
「あ、うん」
カサカサに荒れた掌。それを先日の夜とは違い、じっくりと眺める。この手が作ったものを毎日食べ、畳んだ服を着て、片付けた部屋で寝起きしている。
切れ傷はないけれど、それも時間の問題だろう。
「…………シキ」
「……ちょっと待ってろ」
「え?」
名残惜しく感じながらも、一度手を離し寝室に向かう。キャビネットの引き出しから目当ての物を取り出す。包装用紙も何もない、ただ紙袋に入れられただけのそれ。その表面をつと撫でる。
どうしようかと、ここにきてまだそんなことを思う。
触れた手の感触。荒れた掌。躊躇を振り切りリビングに戻った。
「椿」
ソファの上。椿は先ほど触れていた手を抱き締めるようにしてぼんやりしていた。声をかけ隣に腰を下ろせば、弾かれたようにこちらを向く。
蓋を開け、一掬い指先にとる。
「手」
缶をテーブルの上に置き、手を差し出す。戸惑いがちに重ねられた手に、それを落とす。冷たさからか、椿の手が一瞬ピクリと反応した。
ゆっくりと、両手でマッサージするように塗り広げる。
出掛けた先でたまたま見かけたハンドクリーム。カラフルな缶に目をひかれ、荒れた手が脳裏に浮かんだ。
時はちょうどクリスマス前。クリスマスプレゼントというわけではないが、何となく、あった方が良いだろうと軽い気持ちで購入した。
それが、渡しそびれたまま引き出しの肥やしになって。
軽い気持ちだった。だから渡せなかったら、それはそれで問題なかった。けれどやっぱり、荒れたままなのは忍びなくて。せめてすこしでも良くなればと。
決して、千条寺に触発されたわけではない。そんなんじゃない。当たり前に触れているその自然さが羨ましくなかったと言えば嘘になる。ずるいと思わなかった訳じゃない。
そもそも立場が違うのだ。結局、千条寺がどういう立ち位置で椿に関わっているのかはわからずじまいだった。それでも、違うということだけはわかる。
話の端々で、千条寺が七里塚の家族とも親しいのだと伝わってきた。どういう関係なのかはわからないが、長く深い付き合いのようで。
だが、空気はまるで違った。二人きりでいる時と、千条寺がいる時とで。自惚れでなければ、千条寺に対するよりも心を許してくれている。
ならば自分だって触れても良いんじゃないかと。まるで上書きするように、必要以上にゆっくり丁寧に手に触れる。
手のシワ、指の間、節の一つづつ。両手でただ一心にクリームを塗り広げていく。手の形を、感触をしっかりと覚えられるように。覚え、込ませるように。
他の誰のでもない、この手の感触だけを。
息を詰めているのが伝わってくる。時おりピクリと反応する。零れ落ちる吐息はどこか熱っぽく、聞こえる度に心拍数が加速していく。
何も、おかしな事をしているわけではない。ただクリームを塗っているだけ。マッサージをしている、それだけだ。それでも、
このまま、この掌に懇願の意を示してしまいたいと、そんな衝動にかられそうになった。
そんなことをしてしまえば引かれるだけ。けれど、だからこそ決して伝えることのできない想いを込めて、ただクリームを塗る。ゆっくりゆっくり丁寧に。ことさら時間をかけて。
「………ありが、とう?」
そっと、手を離したら困惑ぎみに礼を言われた。それに力ない笑みで答える。
「反対の手も」
「………自分でできる、けど」
「いいから」
もう一掬い、指先に取り手をのばせば、おずおずと反対の手が差し出される。それに、先ほどと同じようにクリームを塗り、マッサージしていく。
「どうしたの?それ」
「買った。………デザインが気になったんだが、お前の方が必要だろ?」
「………そんなこと」
「なくねぇだろ。この手で」
「う」
言葉につまる様に、くつくつと笑いが零れた。大丈夫。普通に会話できている。顔を、見ることはできてないが。
「それ、やる」
「でも……」
「いいから。匂い、平気か?」
「うん。て言うか……」
「ん?」
「こんなことされたら、匂う度にシキの事思い出しそうで」
「そりゃいいな」
「っ」
本当に、そうなれば良い。この匂いで思い出してくれるなら。少しでも、椿の中に存在を刻み付けられられるのなら。
「シキっ」
切羽詰まったような声に思わず顔を上げれば、椿がどことなく必死な表情でこちらを見ていた。心臓がドクリと跳ねる。手を握ったまま、動きが止まる。
椿の口が開き、一度閉じる。
「………何、だっけ……何か、伝えたい事があった気がしたんだけど……」
何だそりゃ。落胆のため息と共に告げられた言葉に、肩の力が抜ける。手の動きを再開した。
「何か、大事なことな気はするんだけど……何か……」
「焦るな。思い出した時で良い……待ってるから」
「ん………ありがとう」
思い出さなければ、ずっと傍にいるだろうかと、そんなバカなことを思った。
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