Clumsy(彼の動揺)…1
酷い目に遭った.
もう一度云おう,酷い目に遭った.
名前が兄と席を替わり,僕と長篠の皿が入れ替わったことによって,互いに毒(ではないが,そう呼んで差支えないだろう)を盛り合う形になった,悪夢の出来事から一夜.まだ口の端がひりひりするような気がする.
まあ,そのことはもういい……いや,怒っていないといえば嘘になるが.
それよりも,名前が今日姿を見せないことのほうが気にかかる.
昼になっても,放課後になっても,陽が沈みかかっても,いっこうに現れる気配がない.
あれくらいで体調を壊したとか,僕の機嫌を気にしているとかいうクチでもあるまい.そんなに神経が細ければとうの昔に逃げ出しているはずだ.
用事がなくても邪魔だと言ってもこの部屋に入り浸りっていたから,いざ一日居ないとなるとなんだか落ち着かない.
苛つく.僕をこんな気分にさせる名前にも,たかが他人ひとり居ないだけで苛つく自分にも.
なんだって僕があの女のことをつらつら考えなきゃいけないんだ.
なんだか溜まった書類仕事をする気にもなれず,屋上へと向かった.
こうして案件が熟成されていくのは判っているのだが,それもこれも名前のせいなのだ,あいつにやらせればいい.
そうして扉を開けると――――当の本人が,居た.
こちらに背を向け,フェンスに前のめりにもたれかかって,街並をながめている女子生徒.見慣れたその姿は,多少距離のあるここからでも誰だか容易に判別できる.
名前.呼ぼうとして,声が喉に引っかかった.
一瞬の違和感.
けれどその正体を探る間もなくその感覚は消え去っていき,僕はありきたりな言葉をかける.
「……君,ここで何してるの」
「……委員長か」
後ろを振り向きもせずに答える.
「んー,夕涼み.もうすぐ帰るから,気にしないでよぉ」
明確な拒絶,だった.
明るい声音で包んではいるが,「ここからは入ってこないで」というメッセージ.はっきりと引かれた境界線.
――――それは,僕に対する態度じゃない筈だ.
なにも知らない他の奴ら向けの態度で,僕を煙に巻こうとするなんて.……やっぱり苛つく.
君の意になんて沿ってやらない.
そう意思表示するように,僕はその場に座り込む.
その気配に気づいたのか,名前がやっと少しだけ振り向き,ちらりと視線をこちらに投げた.
その瞳に浮かんでいるのは,空気を読まない行動に対する怒りでもなく,諦めでもなく――――困惑?
予想と異なる反応.何故そんな顔をするんだろう.彼女らしくもない.
なんだか厭な――――予感がする.
「君,変だ」
「そうかな」
「そうだよ」
「変か……」
「変だ」
会話に全く手ごたえがない.
相手がこんな様子では燻った感情をぶつけることもできなくて,僕は仕方なく口を閉じる.
しばしの沈黙のあと,名前は両手を上にあげてうんと伸びをし,はあ,と息を吐いた.
「まあ,委員長相手に気を張ってもしかたないかぁ」
そう言って,僕に後ろ姿を見せたまま,空を見上げた.
ビルと空との境目に僅かばかり赤が残る,薄暗い空.中途半端な明るさが星を僕らの目から隠している.
名前は上を見上げたまま,言葉を続ける.
「わかってたんだけどさ,なんか……空しくなっちゃってね」
瞬間.世界がぐらり,と傾いた.
(何だ?)
僕は驚いて2,3度首を左右に振る.
視界は正常に戻ったが,そのかわりに胸のあたりにむかつくような気持ち悪さがこみ上げてきた.
僕の動揺をよそに,彼女は言葉を紡いでいく.
「こんなことしてても,なんにもならないってことも」
「単なる迷惑な自己満足に過ぎないってことも」
「全部頭ではわかってて,でも黙って見てるなんてこともできなくて」
「どうしようもないから,割りきって意地を通してやろうと思ってたんだけどね」
その言葉は次第に独り言のように遠くなっていく.
もう夕陽の赤みも空から消え去った.
闇に紛れて,名前の輪郭が曖昧になる.いつもはあれほど人目をひく存在なのに.
――――やめてくれ.
そんなものは――――見たくない.
口をひらいても,喉が干上がったようになっていて言葉がつかえる.
いや,それ以前にどんな言葉をかけたらいいんだ?
今彼女はどんな顔をしている?
胸のむかつきはもう吐き気を覚えるほどになっている.
「長篠ともはが嫌な奴だったら良かったのに.それならもっと楽に」
「もういい」
やっと出た声は,自分のものとは思ないような声音だった.
ぴたり,と口をつぐむ名前.
その言動に,これほどまでに動揺するのは.
彼女の崩れていく姿を見たくないと痛切に望むのは――――
レンズの焦点があうように,答えを掴む.
(僕の崩れる姿を見たくないから,だ)
その内実は異なれど,表には出せない誰かへの執着を持っていたこと.
それを気取られないように,他人と一線を引いていたこと.
展望などないと知りつつも,どうしてもその感情を捨てられなかったこと.
僕と名前の心の形は,善く似ていた.
隣り合うパズルのピースのように,ぴたりと沿う断面を持って.
だからこそ,僕は名前を隣に置き続けた.
勿論彼女の立場からして,味方につけることが有利だと考えたことも間違いない.
けれど,彼女がいなければ目的を達成できないほど,僕の力が弱いとも考えてはいない.
やろうと思えばいくらでも一人で出来たはずだ.おそらく名前も同じだろう.彼女もずっと,自分一人でやってきたのだから.
それでも僕は,群れないという信念を曲げてでも,名前と協力することを選んだ.
名前を突き放すことは,ある意味で,自分を突き放すことだから.
ゆっくりと振り返り,僕と正対する名前.
永遠にも思える距離の薄暗闇を挟んで,僕は確かに,そこに自分自身を見ていた.
*タイトルはFergieの曲から.
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