ルチフェルの泪とサタンの唄声
01
「…いって、きます」
柘榴の小さな呟きは耳障りなシャワーの音にかき消された。と言っても柘榴はその声が届く事を望んではいない。むしろ聞こえないようにわざと小声で言ったのだ
いつものように何の反応も無いバスルームのドアをしばし見つめ、諦めたように柘榴は玄関を開けた
弟の昶[アキラ]から返事が返って来ない事など既に日常茶飯事になっていた。初めのうちは戸惑い傷付いていた柘榴も、今では昶とは極力関わらないよう努力している
−−いや、今でも昶に存在を無視されるたび、柘榴は身を引き裂かれる思いをするのだが
しかし、それすら感じないほどに柘榴の感情は麻痺していた。麻痺していなければこの日常に耐えられなかったのだ
バタン、と五月蝿い音を立てて閉じたドアに鍵を掛け、柘榴は仕事へ向かう
柘榴16歳。昶14歳。ある夏の暑い日の出来事だった
いらっしゃいませ、ありがとうございました。そんな決まり文句を何度も繰り返し、柘榴は花屋の店先に立っていた
可愛らしい制服と店主の人柄の良さに引かれてこの店を選んだのだが、間違った選択ではなかったと柘榴は感じている
周辺の評判も非常に良く、客の入りも悪くない。むしろ忙しい程だ
面倒見の悪い店主は柘榴にとても良くしてくれた。珍しく柘榴の外見を抜きにして、まるで柘榴を妹のように可愛がってくれるのだ
「柘榴ちゃん、休憩どうぞ?」
「はい、ありがとうございます」
1日8時間以上勤務する柘榴は暇な時間を狙って休憩に行く。普通はここで食事をしたり仮眠を取ったり、各々自由に過ごすのだが
柘榴は食事も摂らず、パソコンを開く。業者から送られて来た書類をまとめ直し印刷して送り返す。わずかな時間も無駄にしたくない、と柘榴が始めたホームワークだった
カタカタとキーボードを打つ手は休めない。家に帰ってから時間があるわけではないので、移動時間やこういった合間にやらなければノルマが終わらないのだ
無心になって柘榴がそれに集中していると、不意に控え室のカーテンが開いて店主が顔を覗かせた
「あら、弟くんの宿題の手伝い?」
「いえ。最近始めたホームワークです。暇な時間が勿体無いので」
「…そんなに働かなくても…。ちゃんと食事してるの?」
・・
「大丈夫ですよ、栄養は摂ってます」
そう言う柘榴の傍らには栄養サプリメントが置かれている。確かテレビで『1日分の栄養がこの1粒に!!』とかふざけた謳い文句で売り出し中のサプリメントだ
それを見咎めた店主−ダニエラ−は大袈裟に険しい表情になる。柘榴はいつも自分の事を御座なりにしがちなのだ。いつでも、自分の事は二の次で
「…駄目よ、柘榴ちゃん。若い子がそんな物に頼ってちゃ」
ダニエラとてそれほど年ではない。むしろ若くして己の店を持てた実力派なのだが
・・・・・
歳を偽って自分の店で働く柘榴が、目を放すと崩れ落ちてしまいそうに脆い砂上の城のように思え、つい小言を口にしてしまうのだ
柘榴もダニエラが自分の事を考えてそう言ってくれていると分かっている。ようやくパソコンの画面から顔を上げた柘榴は、申し訳無さそうに眉を寄せながらも首を横に降った
「大丈夫ですよ、あたしも体壊したら働けないって分かってるんで。…ありがとうございます」
弱く微笑まれてしまえば、それ以上は何も言えない。自分を犠牲にしがちなこの少女が、弟主義な事をダニエラは良く知っていた
「そう…。弟くんは元気?最近話に出ないけど」
「はい、お陰様で。もうすぐ文化祭があるとかで忙しそうですよ」
柘榴は昶の話をする時、まるで聖母のように美しく微笑む。もしかしたら本人はその事に気付いていないかもしれないが、ダニエラはこの笑顔が大好きだった
昶を誉められると自分の事のように喜び、昶の悪口を聞こうものなら相手に掴み掛かる程柘榴は弟を大切にしていた
それは姉弟二人で生きているからで、柘榴にとって昶が命の恩人に他ならないからなのだが、柘榴の過去を一切知らないダニエラはただ仲の良い姉弟だと思っていた
柘榴が身を粉にして働いているのも歳を偽っているのも昶の為だ
その事を昶本人は知らない。むしろ柘榴以外の人間は知らないと言った方が正しいだろう
「弟くん、良かったら今度連れて来てね」
「暇があったら誘ってみます」
本来ならば柘榴も高校に通わなければならない年齢。しかし育ち盛りの昶を1人で育てる為には、学校に行く余裕も暇も無いのだ
笑顔で立ち去ったダニエラを見送りながら、柘榴はそろそろ潮時かな、と思った
16歳を19歳だと偽ることはそう難しい事ではなかった。しかしそれを貫き通す事は容易ではない
ダニエラが自分の年齢に気付いている事を感付き始めた柘榴は、次のバイトを探さなければと視線をパソコンの画面へと戻した
柘榴のするバイトは、長く持って1年しか継続しない。短ければ半年でその職場を離れた事もある
よって柘榴の人間関係も長くは続かなかった。その場限りの、短い関係
だからかもしれない。昶に異常なまでに執着していたのは。昶に依存し、昶から離れられなくなっていたのは
しかし柘榴は、それが間違っているともおかしな事だとも思った事は無かった
むしろそれが正しくて、それが当たり前で、それが全てだった
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