ルチフェルの泪とサタンの唄声
03
朝食を作り洗濯をして掃除をする、毎日単調で同じ事の繰り返し
しかしそれに飽きが来ないのは、常に何かしらの問題が付きまとっているからだろうと柘榴は思った
今だってそうだ。自分に何らかの恨みを持つ人間の度を過ぎた悪戯を、何とかして止めさせなければいけない
一見簡単そうで実は難しいこの問題を、柘榴は自らが囮になる事で解決させようと思ったのだが
……些[イササ]か予想外の妨害が多すぎるのではないのだろうか
「……雲雀さん、いい加減離して頂けませんか」
「ワォ、僕にそんな事言って良いと思ってるの?」
柘榴は既に、囮作戦は失敗だったのでは、と思い始めていた
「そんなにくっつかれたら仕事ができません」
「じゃあそんなものしなければ良いよ。君は僕の側に居れば良いんだから」
雲雀は優雅にソファに座り、柘榴はいつもは床に膝を付くのに今日は珍しく雲雀の隣に座っていた
そして、雲雀は片手で洋書を開き、もう片手を柘榴の腰に回してぴったりと寄り添っているのだ
これでは仕事にならない、と柘榴は何度も雲雀に抗議しているのだが、それが聞き入れられる気配すらない
「第一僕は君の護衛役なんだから、片時だって離れる訳にいかないだろ」
わずかに口角を持ち上げた雲雀を横目に、柘榴は諦めたようにアイロン掛けを再開した
部屋には小さなボリュームでジャズミュージックがかけられている
雲雀の趣味だろうか。どこか懐かしい気がするその音楽のお陰で、二人の間に沈黙が降りてもそれが苦になる事は無かった
「……ねぇ、柘榴。やっぱり今夜は僕の所においでよ」
しばらく黙って洋書を読み耽[フケ]っていた雲雀が、柘榴の腰に回す腕にわずかに力を込めた
「駄目ですよ。全員1回は護衛に付いてもらうんですから」
「なら、あいつの番は最後にすればいい。それでも問題は無いはずだよ」
「可能性の高い人を後回しにしてどうするんですか、それじゃ意味がありません」
可能性が高い人。柘榴は雲雀・骸・ツナ・リボーン辺りが怪しいと思っている
男と暮らしているのだから女性関係で恨まれる可能性なんていくらでもあるのだが、それでも更に確率的に怪しいのはこの4人だった
ならば手っ取り早くその4人にまず護衛してもらえば良いのだ。山本が最初に護衛をしたのは、任務の都合が合わなかっただけだ
「先延ばしにしてもどうせ順番は回ってくるかもしれないんですよ。だったら早い方が良いじゃないですか」
今夜は骸が護衛の番で、以前柘榴の首を締めている所を目撃した雲雀は心配で仕方が無かった
「大丈夫ですよ。骸さんも本気で私を殺したいわけではなさそうですし」
「だったら尚更タチが悪いよ。君、あんな奴の遊び心で死にたいの?」
雲雀が眉を寄せてきつく咎めると、柘榴は若干考える素振りを見せてから視線を落とした
その様子にわずかながらも普段とはどこか違う違和感を感じた雲雀は、咄嗟に柘榴の細い手首を掴んだ
そうでもしなければ、柘榴がどこか手の届かないどこか遠くに消えてしまいそうな気がして
「ねぇ、柘榴…」
「…死にたかった、」
焦ったように柘榴に話し掛けた雲雀を、低い声が遮った
「死にたかった、わけじゃないんです」
酷く悲痛そうな空気を含んだ、切なそうな声
弱りきった蝶のような柘榴のその様子に、雲雀は何も言えずに口をつぐんでただ白い顔を見つめていた
「死にたいんじゃなくて、……多分、逃げたかった」
何から、なんて陳腐な事は訊けなかった。余りにも重く苦しいその空気と見た事の無い柘榴のその表情に、雲雀は自分が冷や汗を掻いている事に気付く
こんな柘榴は、知らない
雲雀はふと胸の内に広がった不安に柘榴の手首を掴む力を強めた
雲雀とツナが柘榴と初めて会った瞬間[トキ]、柘榴は二人の事を『死神』だと勘違いしていた事を思い出す
常人が初対面の人間にいきなり『死神』というイメージを抱くだろうか
雲雀もツナも黒いスーツを着用してはいたが、鎌を持っていたわけでも骸骨だったわけでもない
目の前に居る人間を『死神』だと思うのは、余程妄想癖がある人間か
頭が可哀想な事になっている人間か
或いは、“死んだ”人間ではないだろうか
「………。」
雲雀は柘榴の顔色を伺うように白い表情を盗み見た
柘榴の表情はいつもの雲雀の知る『柘榴』に戻っている
訊きたいが、訊いてはならない事のような気がした
それは勿論他人の生死に触れる、という本能が発する警告のようなものでもあるが
それ以前に、知ってしまえば今の脆く危うい関係さえ崩壊してしまう気がしたのだ
雲雀は、柘榴の“過去”を知らない
元居た世界でどんな事をしてどんな事ができるのか、雲雀は何も知らない
他人の過去なんてモノには興味は無かったが、雲雀は柘榴の事を知らなすぎた
施設育ちで弟が居てプライドがやたらと高い。雲雀が知るのはそのくらいで、柘榴が好きな物も大切な物も弟の名前も何も、知らなかった
しかしそれは、雲雀と柘榴を入れ替えても同じ事が言えた
柘榴は雲雀の誕生日もお気に入りの洋書も、可愛がっているペットの存在さえ知らないだろう
「……ねぇ、」
既に雲雀の存在を若干無視しつつ洗濯物を畳み始めていた柘榴の腕を引いて立たせた
「散歩に行かない?」
これだけ近くに居るのに、この無駄に遠く感じる距離感は、何だろう
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