On the way back home
菊地原士郎の憂鬱


 今日は一日憂鬱だ。

 バッグの中身を覗いてため息を吐く。ほら、幸せが逃げてる。溜息と幸せの相関関係は全くわからないけどそんな気がする。病も気からってやつ? それで済んだら医者は要らないと思うけど。

 昨日、歌川と押し付け合いの末にハンカチは僕の手の中にあった。
 ただハンカチを返すと言ったって、「昨日忘れてたよ」で済む話ではない。

 だって、成海葵の記憶は既に改ざん措置が施されているのだから。

 警戒区域に入ってトリオン兵に襲われた人間には記憶の改ざん措置がされることとなっている。昨日の子どもからハンカチを渡されたときには既に成海は措置が終わっていたということだ。成海の記憶は適当に補填されていて、安易に「昨日忘れてたよ」と言えば簡単に綻びが生じてしまうのだ。
 まして僕と彼女は昨日初対面なわけで、まだ顔見知りの歌川が何とかすればいいのに、あいつの癖に珍しく固辞して僕に役割を押し付けやがった。ハンカチくらい失くしたっていいと思うが、人に押し付けた癖に「大事なものかもしれない」とか歌川はのたまう。僕としては渡さなくても全く問題はないんだけど、鞄の中でクマがにっこりと笑うと妙に居心地が悪いというか笑顔が罪悪感みたいなものに訴えかけてくる。
 まあ機会があれば返すよ、機会があればね、と心の中でクマに返事をしたが、別のクラスの女子との接点なんてないままに下校時刻を迎えた。機会がないから仕方ない、とまた筆記用具をカバンに詰めながらクマに言い訳をして、ファスナーを閉じる。

 いつも通り、学校を出てボーダー本部に向かう。
 ボーダー本部は警戒区域ど真ん中にあるわけで、警戒区域へ向かう毎に少しずつ人気がなくなっていく。
 そこで、かなり前の方を成海葵が歩いているのに気がついた。別に気にしていたから気がついたとかじゃなくて、目でも耳でも歩き方がおかしいのがわかったから彼女だと気づいたんだ。昨日の怪我のせいだろう、彼女の足取りは重く、少し不自然な歩き方をしていた。
 だから、僕は普通に歩いているのに彼女の姿が徐々にはっきりと見えていく。いつもならボーダー本部に行くのにはさっき通り過ぎた入口を使うようにしている。ただ、今日はもう一つ向こうの入口を使おう。別にそういう日があってもいいじゃないか。

 しばらく歩くと、成海は警戒区域に突き当たる場所で立ち止まった。何を考えているんだ。 例えば昨日のは救助じゃなくて侵入だったとか、あり得ないけど考えてはみる。元々距離が縮まっていたのに、成海が立ち止まったせいでもう僕の足音が聞こえるだろうほど近くに来てしまった。
 数十秒間立ち止まった成海は、またその足を引きずりながら角を曲がって行く。
 僕は少し足を速めた。

「ねえ」

 声をかけると、彼女は立ち止まってから振り返り、私? というように首を傾げた。

「落としたよ」

 彼女に近づいて、バッグから取り出したハンカチを押し付けた。受け取った成海は、一瞬表情が強張る。

「これ、どこに落ちてたの?」

 成海の視線は真っ直ぐだった。確信に近いものを持った鋭い視線。僕は少し面食らった。明らかに記憶に齟齬を感じているようだった。ハンカチを渡すだけでもう詰んでいるじゃないか。

「さぁ。歌川に渡してくれって頼まれただけだから」

 僕に押しつけた罰だ。あいつにも押しつけさせてもらう。

「歌川くん……そっか、ごめんね。今朝にはもうなかったから」

 彼女は少し緊迫した雰囲気を誤魔化すように微笑んだ。歌川の名前を出した時点でボーダー絡みであることを察しているんじゃないかとすら思えた。その上でこれ以上の追及を避けたように見えたし、実際そうだと思う。意外と勘が鋭いし、冷静だ。

「これ大事なものなんだ。ありがとう」

 結局は歌川の言ったとおりか。

「ぼくは頼まれただけだから」

 あくまで面倒は歌川に押し付けるスタンスを通そうとしながら、つい視線が下がる。彼女の両膝には仰々しく包帯が巻かれていた。彼女も僕の視線の先をなぞって行く。

「あっ、これ? 昨日、階段で思い切り転んじゃって。ドジだよねーめちゃくちゃ痛いんだよこれ」

 はは、と軽く空気を吐くように笑って彼女は照れ隠しに髪を撫で付けた。今回はそういう改竄がなされているんだな、と僕は納得して「だね」と同意した。ドジというところに同意したのに、彼女は憤慨したところもなく、笑みを深くした。
 昨日は平気そうな顔してたのに今日は臆面もなく痛いと言ってのけるんだな。そりゃそうか、昨日とは違って、今僕は無関係なんだから。

「……さっきさ、あそこで立ち止まってたけど、何してたの?」
「えっ、あぁ見られてたの?」

 迷いながらも気になって口にすると、彼女はわかりやすく狼狽して「えっと……」とか言いながら視線を彷徨わせて顔を赤くした。

「あのさ、警戒区域に立ち入ろうとしてるなら……」
「違う、違うよ!」

 僕の言葉を遮ってもなお、口を開くのを少し躊躇っているようだった。まあ流石に、何か企んでいるなんてことはないだろうけど。

「私の家、この近くで……」
「うん、だろうね」

 帰り道じゃないのにわざわざ警戒区域付近に近寄るなんて怪し過ぎる。僕の軽い嫌味にも彼女は気にせず頷いた。

「だから、家や家族を守りたくて……ボーダーに入ろうとしたんだけど落とされちゃって」

 あ、と思う。

『そうできれば、良かったんだけどね』

 昨日の言葉の意味。トリオン不足、か。

「それから、つい眺めちゃうんだよね」

 手の届かない、自分の命運を預けるしかない場所。一番に被害を被る場所にいるのに、何もできない無力感。あの時間はそれを確かめる時間か。……無意味すぎる。
 多分目の前の人物もそれはわかっていて、それでもしないではいられないのだろう。問答無用で必ず彼女は帰り道にあの建物に直面するのだから。

「オペレーターは? 勧められたでしょ」
「……あぁ、うん。でも、やっぱり闘える人になりたかったから」
「ふぅん」

 まあトリオン兵の前に武器も持たず突っ込んで行く性格を考えれば、戦闘員になりたいのも納得だ。オペレーターも戦っているうちに入る、なんて言葉はきっと彼女に刺さらないだろう。

「じゃ、ちょっと気になっただけだから」


 気になることは聞いたと踵を返そうとすると、控えめな「あっ」と言う音が聞こえて動きが止まる。気にしないで行けばよかった。普通は聞こえない程度の声だったから。

「菊地原くん、ボーダーのお仕事頑張ってね」

 彼女は僕の動きは気にもとめず、微笑んでひらひらと手を振った。

……名前。

 昨日は顔も知らない感じだったのに、いつ知ったのか。昨日と今日で色々印象が違う。どういうことだと少し考えようとしたけど、多分あんまり考えても意味は無いな。
 ひらひらと手を振る成海に一度だけ手を翳し、背を向ける。

「転ばないよう気をつけて帰りなよ」
「流石にもう転ばないよ」

 軽口のように言えば、苦笑した返事が返ってくる。それに、どうだか、と心の中だけで言う。また同じ場面に出会えばまたやりそうだ。


 その場を離れてしばらく歩いてから一度立ち止まり振り返る。
 ずいぶん小さくなった成海がやはり不自然な歩き方をしている背中が見えた。
 さっき話して、その目に確かな意思を感じたはずなのに、なぜだろう。人気のない道に吸い込まれていくその背中は、やけに頼りなげに見えた。




(2018/06/15)

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