On the way back home
小さな部屋
何度も部屋の出入口を往復して、変なところがないか確認していると、インターホンが鳴った。
「いつもその格好なの?」
ドアを開けると、全身を眺めた後挨拶もなく開口一番に告げられる。
「えっ……変かな? 部屋着なんだけど」
お出かけ着ではないことをアピールしつつ、自分で自分を見下ろす。襟元開き気味のTシャツにショートパンツ、その上にカーディガン、普通だと思う。Tシャツの襟ぐりが開いてるから、伸びていると思われたとかかもしれない。そういうデザインなんだよ。そういえば私服で会うのって初めてだから気合いを入れるべきだったのかもしれない。菊地原くんはロングカーディガンに無地のトップスにデニム、ゆるカジって感じでおしゃれだ。
一言突っ込んだ後はもう興味が無さそうに家へ上がったので私室に案内する。居間に通した事はあるけれど、私の部屋へ上げるのは初めてだ。
キッチンから持ってきたお茶とお菓子をテーブルの脇に置いて、菊地原くんの向かいに座る。すると、バッグの中から勉強道具を取り出しながら菊地原くんが口を開く。
「数学のノートってちゃんと取ってる?」
「板書は取ってあるよ。先生は英語以外は同じだよね」
「そうなんだ」
知らないけど、と菊地原くんは興味無さそうにして、紙の束を取り出す。
「それは?」
「歌川がくれたコピー。数学は雑なんだよね」
菊地原くんの手の中を覗くと、女の子らしい字のノートのコピーだった。どうやら任務で休んだ授業のノートを歌川くんが借りてコピーしたものを更にコピーして菊地原くんに渡しているらしい。菊地原くんは何の手間もかけていないのに、更にそれに批判を加えているらしい。いいご身分だ。
私のノートを渡すと、そのコピーと比べながら、「これよりはまだ見やすい」との批評をいただいた。
菊地原くんは休んだ分のノートの確認を始めたので、私も教科書に目を落とす。しかし、勉強会をしながら思うのも何だが、勉強は1人で集中したい派なので向かいに人がいると思うと、目が滑るばかりで何も頭に入ってこない。更に、勉強不足ゆえに特に誰かに聞きたい疑問点もなく、勉強会の利点がゼロの時間を過ごす。
しばらく教科書を眺めるふりをしながらぼーっとしていたら、不意に菊地原くんが顔を上げる。
「勉強しなよ」
「……わかった?」
「そんな間抜け面してたらね」
ページも捲ってないし、と付け足される。確かに。
全く集中できていないから、お茶を飲むことにする。美味しい。
菊地原くんはそんな私に呆れ気味に、バッグの中を漁りだした。そして、ファイルを1枚取り出して私の前に差し出す。
「これ、歌川に貰ったから」
受け取って見ると、昨年の過去問のコピーだった。
「余裕なんでしょ、それでも見てたら」
余裕かどうかは全くもって不明だが、菊地原くんが気を使って持ってきてくれたようだった。ありがとうと言って、ファイルの中を見分する。歌川くんは情報が豊富だ。
しばらく黙って互いに紙面に向かう。パラパラとめくりながら、ふと私がお菓子に手を伸ばすと、声がかかる。
「ねえ、暇つぶしに勉強してるの?」
「ちょっと休憩だよ」
「メインを休憩とは言わないんだけど」
小言を言わないと気が済まないらしい。
「ほら、菊地原くんも休憩しよ」
と、テーブルの脇のお茶菓子をテーブルの上に置いて、無理矢理勉強を中断させる。菊地原くんは嫌々ながら、お茶に手を伸ばした。
「集中力低すぎ」
菊地原くんの批判を無視して、私はお茶を啜った。菊地原くんは言っても無駄と思ったのか、休憩モードに入ったらしく首を回してついでに部屋を見回した。
「急いで部屋片付けたって感じだよね」
「そんなことないよ。掃除機かけたくらいだし」
一体どう思われているんだろう。
「思ったより女子っぽい」
一体どういう意味なんだろう。
「そう? 他の女子の部屋ってどんな感じ?」
私もつられて部屋を見回す。子どもの頃に買ったピンクのカーテンとか、ベッドの上のぬいぐるみとか、そういうのから女子感が出ているのだろうか。思えば、最近は外で遊ぶことが多くて友達の部屋って行っていないように思う。普通はどんな部屋なのだろう。
「知らないよ。女子の部屋来るの初めてだし」
「そうなんだ、行ったことあるのかと思った」
少し意外で、少し照れた。ボーダーは私の知らない世界で、てっきり女子の部屋にも行ったことがあって比較されているのかと思った。
私も、男子を部屋に上げるのは初めてだった。菊地原くんのことはあっさり誘ったけど、全く意識しなかったわけではない。でも、菊地原くんだし、私達は友人みたいなものだし、ある意味安心して呼んだ。
「……あのさ」
菊地原くんが口を開く。少し声が低い気がした。
「うん?」
私はお茶をテーブルに置いて、菊地原くんに向き合う。
「ちょっと安心し過ぎじゃない?」
「……何が?」
「一応部屋に2人なんだけど、意識とかしないわけ?」
今私が思ったことを言っているのかな。まあ状況だけ見てみれば、付き合っている男女が部屋で2人きりのわけだ。でも、いちいち意識していたら馬鹿を見るのが私なのは火を見るより明らかだ。
「しないよ、菊地原くんだし」
菊地原くんは呆れ気味な雰囲気を纏わせていたので、私も苦笑しながら答えた。「何それ」と菊地原くんの口が動く。それと同時に、菊地原くんが私とテーブルを挟んでいた距離を詰める。そこでやっと、私は空気がいつもと違うことに気がつく。
床に投げ出していた手の上に、菊地原くんの手が置かれる。何が起きたのかわからなくて思わず身を引こうとすると、肩を軽く押された。そのまま後ろに倒れそうになって、背後にあったベッドの側面に背中をぶつけた。
「ぼくがこういうこと、考えないとでも思った?」
声が、出ない。
菊地原くんは膝立ちで更に近づいて、ベッドに預けたままの私の顔の横に手を置いて、更に距離を詰める。
顔が、近い。
混乱を整理するよりも前に、心臓がバクバクうるさくて何も考えられない。死にそう。死ぬんじゃないかな、私。息も上手くできない。こういう時ってどうするんだっけ、何も準備ができていない。
菊地原くんが腕に体重をかける。ベッドが軋む音が背中でする。近づく距離に耐えきれず、とうとう目を閉じた。息遣いが聞こえる。耳の中まで脈打っておかしくなりそう。
その瞬間、携帯の着信音が聞こえて、目を開けた。菊地原くんの顔が近くて驚くけど、彼も着信音の聞こえる方に顔を向けていたから向き合わずには済んだ。一瞬その態勢のまま固まるけど、3コール目が鳴り出す頃には菊地原くんは携帯の元へと移動した。
「……はい」
菊地原くんが電話に出るのを横目に見ながら、胸の中心部を押さえる。心臓が鳴り止まない。
「え、今から? ……あー、はいはい、わかりました」
嫌そうに携帯を耳から離すのをテーブルの向こう岸から眺めていた。
「……風間さん?」
「いや、上司」
緊急の呼び出しらしい。菊地原くんは大袈裟に溜息を吐いた。
「忙しいね」
「まあね」
私は、普通に喋れているだろうか。
「じゃあ」
「うん、気にしないで」
テーブルの上のノートをバッグにしまって、バッグを肩にかけて立ち上がった。
「戸締まりちゃんとしなよ」
「わかってるよ」
小姑みたいな口煩さに苦笑する。彼が私の部屋を出て行って、階段を降りる音がした後、しばらくして玄関のドアが閉まる音が階下から聞こえた。その音を聞いた瞬間、肩から力が抜けてその場に崩れ落ちる。
びっくりした……。心臓が未だにうるさい。菊地原くんも、そういうこと、したいって考えるんだ、私と。失礼なのかもしれないけど、意外で、いつも見ているのとは別の一面を見た気がして、男の子なのだと意識した。唇があと数センチで触れそうな感覚が残っている。恥ずかしくて、嬉しくて、触れてしまいたかった。触れてしまえば、どうなったのだろう。あの電話が恨めしい。
ふと、テーブルの上に広げられたノートと教科書が目に入る。とてもではないけれど、勉強をするような気持ちにはなれなかった。
クローゼットを開いて、服を着替える。このぐつぐつとした感情の絡まりをこの小さな部屋には、とてもではないけど閉じ込めて置けず、私は部屋を飛び出した。
(2018/07/07)
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