正しい生き方
そして夜が来る


 飲み物を買いに出た帰りに寮のロビーを歩いていると、向かいから両手に紙袋を提げた釘崎が歩いてきた。窓の外はとうにとっぷり日が暮れている。

「よっす伏黒。一人? 寂しいわね」

 上機嫌のようだ。良い物が買えたのだろう。絡み方がウザい。

「買い物に行ってたのか。草薙も一緒か?」
「桔花なら午前中から出掛けてたわよ」

 女子2人はタイプが違うようでいて案外仲が良さそうだった。買い物もよく一緒に行っていた。話を聞くと、一緒に出掛けて別行動しているらしいのだが。わざわざ一緒に買い物するのも理解が難いが、一緒に行って別行動するのもよくわからなかった。食事は一緒に取って何を買ったか報告し合うのだと嬉しそうに草薙が話していたのだからこの2人の関係はそれで良いのだろう。今日もそうなのかと思ったが、どうやら違うらしい。

「あれは男ね」

 探偵のように鋭い目をして釘崎は、真実を見つけたかのように大袈裟に言った。

「そうか」

 できるだけ何の反応もしないようにして釘崎の目の前を通り過ぎようとする。

「待ちなさい。根拠ならあるわ」

 別に根拠の有無は聞いてねぇ。それが事実でもそうでなくとも、俺には何の反応もする権利はない。

「というかまだ帰ってないわけ? 遅くない?」

 釘崎は、根拠の話はどうでも良くなったようで、反応のない俺に素朴な感想として投げかけた。確かに、寮に門限があるわけでもないが、午前中に出掛けたにしては帰りが遅いな。一応俺達も補導される年齢なわけだし。
 釘崎は、心配した台詞を言っていた割に俺が相槌を打ったら満足したらしく、部屋に引っ込んで行った。
 俺も部屋に戻る途中だったんだが、釘崎の言葉が引っ掛かった。俺が心配する筋合いはないとわかっているのに、足は玄関へと向かった。心配とは違うかもしれない。あの夜、呼び止められなかった背中をただずっと悔いていた。


 *

 
 頭痛自体は治まったのに、身体が鉛のように重い。足枷がついているのかと錯覚するくらい、駅からの足取りは重かった。自分で逃げている場合じゃないと思ったはずなのに、今は帰りたくない。でも、どこにも居場所なんてない。初めから私は私自身を呪っているのだから。
 高専の敷地が広過ぎて、なかなか寮に辿り着けない。肩から提げた、財布とスマホとリップくらいしか入っていない小さなバッグすら枷のように重く感じて投げ出したくなった。足を引き摺るように歩いていたら、軽く地面に蹴つまずいてふらついた。もうすぐで寮に辿り着く、あと一踏ん張りだ。頑張れ私。

「草薙?」

 自分自身に内心でエールを送っていたら、私を呼ぶ声が聞こえて、地面ばかり見ていた視線を上げた。目的地の寮も見えたが、その前方に伏黒くんの姿が目に入った。

「大丈夫か?」
「えと、大丈夫。伏黒くんはどうしたの?」

 ふらついていたのを見ていたのか、伏黒くんは私に駆け寄った。自分で言った通り大丈夫に見えるように、バッグを肩に掛け直し、目一杯背筋を伸ばした。今何時だろう。心配を掛ける時間に帰る予定はなかったのだけれど、駅からここまでの道のりにどれだけ時間が掛かったか覚えていない。

「釘崎が遅いって心配してた」
「そっか、ごめんね心配かけて」

 私に優しいわけじゃない。再び言い聞かせた。私はこれ以上何を貰う気でいたのだろう。

「いや……」
「楽しくて帰るの遅くなっちゃった。疲れたからすぐ寝るね」

 正常な会話を続けられる自信がない。遊び疲れたことを理由にして、早く伏黒くんの前から立ち去りたかった。姿を見るだけで、感情が揺さぶられる。まだ自分の感情に整理がつかない。

「草薙」

 だから振り返れない。名前を呼ばれても、反応せずに伏黒くんの隣を通り過ぎる。告白した夜と同じに、見過ごして欲しかった。なのに。

「何かあったろ」

 伏黒くんは、通り過ぎようとする私の腕を掴んだ。弾みで肩から提げたバッグが手首までずり落ちた。

「何かって……特に何もないよ」

 惚けられているのだろうか。腕を掴まれても目を合わすことすらできず、俯いて地面を見つめた。

「嘘だろ」
「そうだね……」

 妙な確信を持った伏黒くんの言葉。どうして今拘るのだろうか。

「確かにあったね、伏黒くんに振られた」

 核心をついた答えと共に、真っ直ぐに伏黒くんの目を見た。これで追及を逃れられると思った。悪手だった。
 伏黒くんは一瞬、罰が悪そうに、眉間に皺を寄せて視線を逸らした。伏黒くんの気まずさに訴えかけるつもりだったのに、そんな顔を見てしまったら悪いことをした気になった。実際告白しておいて振ったことを責めるなんて悪いことなんだけど、想像以上に私はその顔に弱かった。

「草薙……」
「嘘、冗談だよ」

 伏黒くんが再び私の方へ振り向いたと同時に、明るい声を上げて誤魔化した。それと同時に、私の腕を掴む彼の手を振り解いた。ただ、その反動で思わずよろけた。

「草薙」
「大丈夫、大丈夫だから……」

 呪文のように繰り返す、大丈夫。いつか本当になれば良い。伏黒くんから距離を取るはずだったのに、よろけた私の肩を伏黒くんが思わず掴んだ。さっきよりも近づいた距離から顔を覗き込まれる。

「顔色も悪い。頼れとは言わねぇけど、嘘はつかなくていい。他人行儀になるな」
「……他人でしょ」
「そうだな」

 言った覚えのある言葉に聞き覚えのある言葉。思わず笑ってしまった。これは、逃げられない。

「じゃあ、一個聞いていい?」
「ああ」
「私が死んだ時、何したの?」

 私の知らない、私に起きた話。伏黒くんは私に何を与えてくれたのか。私は何を貰えば満足したのか。何があれば生きていたいと望んだのか。知りたい、知りたくない。相反する感情を抱えたままの私の前で伏黒くんは沈黙した。

「どうやって私を生き返らせたの?」

 言い澱んでいる伏黒くんに、再度質問をする。

「お願い、教えて……」
「草薙が……」

 懇願すると、ようやく口を開いた伏黒くんが、一度言葉を切る。

「俺にしたことと同じことだ」

 私が伏黒くんにしたこと。それは、きっと呪った時のことだ。拘置所内、一級呪霊の前で呪符を全て失い、伏黒くんを呪うためにその唇に口付けた。想いの強さこそが呪いだ。だから、そうした。今思い返してもただのエゴだ。

「そっか……そっか……」

 噛み締めるために言葉を繰り返す。渇いた笑みが漏れた。そりゃあ私も満足するわけだ。

「草薙」
「ごめんね……そんなことさせて」
「いや、俺が勝手にやったんだ。悪かった」
「違う! 私が……私が、伏黒くんに何かを貰えるなら生きていたいと願ったんだよ。それでそんな縛りを足しちゃったの」

 悪いことをしたかのように謝罪する伏黒くんを見て、頭を振った。伏黒くんは何も悪くない。悪いのは全て私だ。全て私が望んだこと。そんな縛りを付与したら、助からなかったかもしれないのに。

「私バカだ……何かを貰えるなら生きていたいなんて……」

 声が震える。感情が止まらない。元々贖罪なのに、罰のつもりなのに。自分を許したいなんて馬鹿だ、愚かな自分を許せるわけも許されるわけもなかった。

「なんて浅ましい」

 信念も何もない、自分の決めたことを破ってまでただ生にしがみつく自分に失望した。涙が溢れて、堪らず顔を手で覆った。伏黒くんに動揺を見せたくないと思っていたのに、もう止められなかった。

「なんで生きてるんだろう……」

 どうして生きたいなんて思ったのか。罪悪感で胸が押し潰されそうだ。自分が嫌いでたまらない。私の望まない私、伏黒くんに望まれない私なんて。

「何もおかしくないだろ」

 伏黒くんが、涙を押さえる私の両手を取った。

「俺は生きていてくれて嬉しい」

 私の視界を塞ぐ物が何もなくなって、強制的に伏黒くんと目が合った。黒檀のような暗い瞳に、吸い込まれそうな引力を感じた。彼は私の欲しい優しい言葉をくれる。手を取られなくても、拭うべきものはもうなかった。

 わかった、私はこの人が居るから生きたいのだ。

 なんて浅ましい欲望だろう。こんなもの要らない。これさえなければ、私は望む私でいられる。
 ──この気持ちさえ殺せれば。

「離して」

 その真っ直ぐな瞳をとても見ていられなくて、両手は塞がれているから最後の手段で逃げるように顔を背ける。

「俺の言ってることわかってないだろ」
「何が」

 憤慨した様子の伏黒くんの声。私の手首を掴む手に力が篭る。彼の掌が熱い。伏黒くんは全く悪くないのに、彼のせいで感情がまぜこぜになった私は思わず対抗して声を上げて顔を向けた。その途端、二の句が継げなくなった。
 何を言っているのかも、何が起きているのかもわからなかった。

 状況は全て認識していたはずなのに、理解するには時間を要した。伏黒くんは、私の手を掴んだまま距離を詰める。私が彼の方を向いた途端、唇に彼のそれが乱暴に押し付けられた。確かに温度のあるものが触れていた。キスされている。理解した時には恥辱と憤激で身体中が支配された。

 両手を取られているせいで、自力で抵抗してすぐに振り解くことが困難だった。何とか動く肘で力任せに彼の肩を押して逃れ、足で向こう脛の辺りを思い切り蹴りつけた。すぐに掴まれていた手が離され、よろけながら距離を取った。そして、開いた距離から、きつく睨み付けた。

「馬鹿にしないでよ!!」
 
 激昂して叫んで、その場から逃げた。さすがに伏黒くんも追ってこないし、呼びかける言葉もなかった。止まったはずの涙が滂沱として流れた。

 同情された。こんな屈辱はない。
 それほど私は哀れに見えただろうか。見返りを求め、生きたいと望んだことを悔いている私は、同情や憐憫、施しの対象にしかならないほど、滑稽な存在なのだろう。

「もうやだ……」

 涙が次から次にボロボロと溢れて止まらない。
 確かに、見返りがあるなら生きたいと願った。そして、今そのことを悔いている。だからって、施しを望んでなどいない。
 好きな人に、振られた相手に、憐まれる。こんなに馬鹿にされること、私は他に知らない。あまりに惨めじゃないか。
 息も胸も全てが苦しい。こんなに苦しい気持ちなんていらない。伏黒くんのために死ぬ、それだけが私の本当だ。
 告白なんてするんじゃなかった。気付きたくなかった、同情されるような弱い自分に。


 長い道のりを経て、寮の自室に滑り込んで、後ろ手に扉を閉めた。感情任せに閉めたせいで思いの外大きな音が部屋に響いた。その音と独りきりになれる場所に辿り着いたことで少し平静さを取り戻す。そして、激情のままにした行いをようやく省みる。
 ついカッとなって蹴ったのはやり過ぎだったと思う。伏黒くんだってやりたくてやっているわけじゃないのだから、拒絶すれば普通に離してくれただろう。

『俺の言ってることわかってないだろ』

 不意に、伏黒くんの言葉を思い出す。
 何も分からないよ、自分のことも分からないのに。伏黒くんが、本当は何を考えているかなんて、私にわかるはずがなかった。



(2020/10/18)

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