神様のいない楽園(ジュライ×蘇芳+紫苑/DTB)


 都内の水族館にて、男性に手を引かれている少年の金髪は人目を引く。何気なく振り返った蘇芳も少年に目を止めた。少年は蘇芳の姿を認めると微笑み、その小さな手を振る。見覚えのない少年が自分に手を振る姿に首を傾げながらも、蘇芳はその場を立ち去った。




「……」

 この世界の蘇芳に初めて会ったその日のことを思い出しながら、少年は少女の居たはずの場所を見つめる。そして、更に昔のことを想起する。

『言いたい事は言ったほうがいいよ』
『ジュライ』

 少女の声が少年の頭の中で反芻する。少年がかつて願った願いは、蘇芳と一緒にいたい、だったはずだ。会いたい、その想いが強くなり、あのときのように衝動的に駆け出す。

「ジュライ!」

 繋いでいた手を解いて駆け出すジュライに向かい男性が叫ぶが、少年は耳を貸さず走る。蘇芳に会いたい、気持ちはそれだけだった。






 何の変哲もない、都内に存在する中学校。授業を終え、学生服を着た男女が校門を出入りする。その中で彼らと何も変わらないように蘇芳は友人と談笑していた。
 艶やかな黒髪のツインテールがトレンドマークの友人が、ふと校門前を指差す。

「あ、あの子可愛い」
「え?」

 友人の指差す先には帽子からはみ出す金髪が目を引く、小学生くらいの少年が息を切らせて立っていた。

「蘇芳」

 少年が、少女の名を呼ぶ。それを聞いて、蘇芳は不意に思い出す。

「あの子……水族館で……」
「知り合い?」
「ううん」

 友人の問い掛けに首を振って否定するが、……でも、と繋げる。心の泉が波紋を立てる。

「知ってる気がする」

 蘇芳の普段とは違う様子を察知して友人は先に帰ってるね、と手を振る。それに応えた後、蘇芳は少年の前まで来てストンと膝を落とす。自然と少年を見上げる形になり、お姉さんぶった尋ね方をする。

「どうしたの?」
「会いたかった」
「え?」

 驚きに声が漏れる。会いたかった、そう言って少年は蘇芳の首に腕を回して抱き着いて来たのだ。

「蘇芳……」
「……っ!」

 混乱する蘇芳の耳元で、少年が名前を呼ぶ。それを聞いた途端、脳裏に映像が浮かぶ。

『ジュライ?』

 どこかで、同じことがあった……?
 この子が急に抱き着いて来て、ボクはその時も驚いたんだ。

「痛っ……」

 何かを思い出しかけた途端、頭に痛みが走り思わず押さえる。

『思い出しては駄目だよ』

 脳に直接訴えかけてくるように、少年の声が頭に響く。この声の主を、ボクはとてもよく知っているように思うのに、何も思い出せない。

「何……今の」

 急に頭痛が解けて呆然としている蘇芳から、スッと少年が身体を離す。

「ねえ、君は……あっ」

 誰? ボクを知っているの? そう尋ねようとするが、すぐに少年は走って逃げてしまった。





 その日の夜、蘇芳はいつものように自宅の窓から望遠鏡を覗くが、気持ちがざわついて落ち着かなくなる。
 何だろうこの感じ……いつもの何か足りない感じに似てる。

『きっと人肌恋しいんだよ』

 友達はそう言うけれど、もしそうなら……誰の?

 ボクは誰を恋しく思ってるんだろう。

 ファインダーから目を離し、肉眼で満天の星空を眺める。

 わからない……。ボクには何が足りないんだろう。




 
「あれ?」

 それから数日が経過した、ある休日。答えの出ない問いは半ば諦め、息抜きに街へ出た蘇芳はある少年を見て首を傾げる。

「あの子……」

 校門前に居た子だ。金髪の少年が往来でキョロキョロと周辺を見回している様子はやけに目立つ。

「どうしたの? お母さんとはぐれちゃった?」
「蘇芳……」

 何故か義務のように助けてあげなきゃと思い声を掛けると、少年は目を丸くして驚き、蘇芳の名を呼ぶ。そして、一瞬の間の後、首を振り、母ではないと否定する。

「父さんが」
「そっか。一緒に探してあげる。名前は?」
「……」

 蘇芳が手を差し出すと少年は再び大きな目を見開く。どこか懐かしそうに、少年はその手を取りながら名前を名乗る。

「ジュライ」
「そっか。ねえ、どうしてボクのこと知ってるの?」

 聞きたかったことを蘇芳が尋ねるとジュライは視線を往来から少女へ戻す。その眼差しは、驚きと悲しみと、色んな感情がごちゃまぜになっているように見え、蘇芳は心のどこかで安堵する。何故だろう、少年の表情豊かな姿に安心するのは。それを誤魔化すように明るく笑う。

「……へへ。君のこと知ってる気がするんだけど思い出せなくて」
「旅を」

 迷うようにジュライは口を開き、一度、そこで切る。

「旅をしたんだ」
「たび?」
「ジュライ!」

 蘇芳が聞き返した瞬間、その声は少年の名を呼ぶ男性の声に掻き消される。

「父さん」

 少年が男性を呼び、そっと蘇芳の手を離す。父親が少年を抱いて喜ぶ姿に、良かったねと蘇芳は心の内で語りかけてから往来へと身を翻した。






 自宅に帰ってから、蘇芳は本棚をひっくり返して探し出したアルバムをパラパラとめくり、そして唸る。

「うーん……遠出ってパパの故郷くらいしかないんだけどなぁ」

 ジュライの、旅をしたと言う言葉を聞いて蘇芳は自らの思い出を振り返る。向こうが知っているのだから、自分が忘れているだけかもしれない。
 蘇芳は日本人の母とロシア人の父を持つハーフだ。父の故郷といえば勿論ロシアになる。
 目の前には数年前に家族三人でウラジオストクへ帰省したときの写真が広がる。町並みはどれも異国情緒に溢れている。ウラジオストク駅で撮った写真を見ると、奇妙な懐かしさを覚える。見覚えがあると言ってしまうと一度訪れた場所なのだから当たり前かもしれない。けれど、この場所でとても大きな、人生を、ボク自身を変えてしまうような出来事があったような気がする。よくは思い出せないけれど。





「ジュライ?」

 学校からの帰り道、蘇芳は少年を見つけ、教わった名を呼ぶと、ジュライは無言で振り返る。

「あ……ボクの家近くだから。ジュライは?」

 聞くと、今は暇らしい。ちょうど良かった、ゆっくり話してみたかったんだ、と蘇芳は自分の家へジュライを誘った。




「もしかしたらロシアで会ったのかなーって」

 玄関を上がりながら蘇芳は軽い調子でそう告げる。ジュライが背後で目を丸くしていることには気づかずに。
 両親はまだ帰っていないらしい。とりあえず自分の部屋へ通そうと案内する。廊下にパタパタとスリッパで歩く音が響く。

「……っ!?」

 部屋への短い距離の廊下で不意に蘇芳が立ち止まる。あまりに突然過ぎてジュライは蘇芳の背中で鼻を打ったくらいだ。

「蘇芳、どうしたの」

 ジュライが鼻を摩りながら尋ねる。

「こんな部屋……ボク知らない」

 唖然とした様子で蘇芳は呟くように言う。見開かれた双眸は廊下の壁に存在する、何の変哲もない扉へと向けられていた。確かに今朝まではこんな扉は無かったはずだ、と蘇芳は震えた手をそっと伸ばして、恐る恐るドアノブを掴む。
 ガチャと音を立てて戸を開くと、そこには蘇芳の部屋と変わらない大きさの部屋があった。ベッドに、机、一見何の変哲もない部屋のように見える。しかし、パソコンの置かれたデスクの向かいに椅子がないことを少し不審に思う。

「誰の部屋?」

 部屋に足を踏み入れ、ぐるりと見回すと、壁に写真が多数貼られていることに気づく。知らない人物も多いが、特に多いのは……。

「ボク……?」

 写真の中では、知らない場所、知らない服装で、知らない誰かと、ボクが笑っていた。
 何故か、恐怖は湧かなかった。それ以上に懐かしい気持ちが強く、同時に思い出せないもどかしさを感じ、思わず呟いていた。

「知ってる気がするのに」

 この部屋を、この部屋に居るはずの誰かを知っている気がするのに。泣きたくなるほどの憧憬を確かに感じているのに、霞んだ景色がすぐ向こう側に見えるのに何もわからないことが口惜しくて唇を噛む。

「!?」

 その瞬間、グラッと地面が揺れ、体重を支えるものを失う。
 息が苦しい、けれどどこか心地好い。無重力、というより水中のようだ。違う世界に迷い込んだみたい。溺れるように深海の底に沈んでいく。なのに不快じゃないのは海は生命の源だから? ううん、ここは――生まれる前、ママの胎内みたいだ。
 突然、体が落下するように沈むのが終わり、地面に足がつく。今はもう水中のような錯覚はしない。昔読んだ童話を思い出す。ジュライが兎で、ボクがアリス。導かれる先はどこなのだろう。物語と同じように、今、ボクは夢を見ているのだろうか。

「何なの?」

 周囲を見回すが、薄暗くて何も見えない。この空間が広いのか狭いのかすらわからない。

『駄目だよ』
「誰!?」

 急に、聞き覚えのある声が頭に直接流れ込む。反射で振り返った先に立っていたのは同じくらいの歳の少年だった。赤髪に、片方の目を被っている包帯。少し顔色が悪く、印象は違うものの、その容姿は酷く、残酷なほどボクに似ていた。

「紫……苑」

 何故かするりとその言葉が唇からすり抜けた。何度も何度も数え切れないほど呼んだその名前、それを呼んだ途端に、頭に無数の映像が飛び込んで来る。

『いや、そう思える君が素敵だと思ってさ』
『パパとママによろしく……お姉ちゃん……』

 知っているも何も、紫苑はボクの双子の弟じゃないか。どうして今まで忘れることができたんだろう。

「紫苑なの!?」
「そうだよ。蘇芳」

 小さく口の端を吊り上げる紫苑は、今思い出したばかりの記憶の中の紫苑と寸分違わない。

「良かった」

 安堵の溜息を吐き、勢いよく紫苑に抱き着く。紫苑は僅かに目を剥く。

「良かった……紫苑が生きてて」

 涙腺が緩む。思い出したばかりの記憶の最後の方で紫苑は土色の肌をしていて、まるで永遠の眠りにつくかのように瞼を下ろした。だから、また会えたことが本当に嬉しい。紫苑の肩口に顔を押し付けると、視界に足を捉えて思い切り顔を上げる。唐突なことに頭は混乱しているが、胸は歓喜に満ちていた。

「あ……足! 立てるようになったの?」
「残念だけど、僕は生きていないよ」
「え……?」

 けれど、紫苑の声のトーンは非常に落ち着いていた。紫苑の言わんとすることが理解できず、口からはただ言葉にならない疑問だけが漏れる。だけど、次の言葉でボクは思い知らされることになる、この世界の真実を。

「もっとも、蘇芳を生きていると言うこと自体疑念があるけどね」

 紫苑の言葉は理解できないのに、そう言われた瞬間に頭をガツンと殴られるような衝撃を受けた。それと同時に再び記憶の海に放り出される。多くの記憶達が波のようにボクを襲う。

『だってあの子は……八年前に死んでるのに……』

 ママ?

『お前はずっと……私の蘇芳、だ』

 パパ……?


 そして、あなたは――

『次に行くところでこれは必要ない』
『俺にとっての蘇芳はお前だ……蘇芳』

 誰――?


 一瞬の内に全てを理解する。数え切れない数の残酷な真実と、優しい現実を知る。
 ターニャは契約者で、ニカが死んで、追われて、あの人はお酒をやめて、ジュライが痛いって言って、ボクは既に死んでいて、今のボクは紫苑のコピーで、ママには拒絶されて、パパは死んで、紫苑の力でボクは今皆と違う世界で生きている。
 息切れは激しく、涙がボロボロと零れた。感情の渦を制御できない。色んな感情が合わさって、頭がおかしくなりそうだった。

「ほら、君は忘れるべきなんだよ。蘇芳」
「嫌だ!!」

 紫苑の言葉に、嫌だと大きく叫んで否定する。まだ感情の整理はできないけれど、これだけは言えた、忘れるべきなんかじゃない。そして、それは希望だった。

「忘れたくない。家族のこと、友達のこと、仲間のこと、旅の記憶」
「理解できないな。このままでは君は僕のコピーのままなんだよ」
「違う!!」

 肩を竦める紫苑に対して強く、強く否定する。違う、確かにボクは紫苑のコピーで、紫苑でも蘇芳でもないかもしれない。でも……。

「ボクを蘇芳だと言ってくれた人がいる。ボクは偽物なんかじゃない! 紫苑だって……!!」

 一度、大きく息を吸い直す。そして、たった一人の大切な弟に語りかける。

「ボクを蘇芳と呼んでくれた。お姉ちゃんと言ってくれた。そうだよね!?」

 紫苑はボクのことをいつも蘇芳と呼んだ。最期にはお姉ちゃんと呼んでくれた。だからボクは蘇芳で、紫苑の姉なんだ。さっきまで紫苑を忘れて息をしていた方が嘘だ。

「紫苑のこと忘れたくなんかない! だって……ボクの夢は……」

 言葉が途切れる。思い浮かぶのは水族館。家族で、紫苑と一緒にはしゃいだ日。またあの日のように、と願ったことは数知れない。それが偽りの記憶でも、夢だったのは本当だ。紫苑が与えてくれた記憶、それはまた、紫苑自身の希望でもあったのかもしれない。

「わかったよ、蘇芳。君の夢を履き違えていた。これからは好きにしなよ」

 軽く呆れたような溜息を吐いて紫苑は目を伏せる。その途端に、紫苑の足が光に包まれ消える。

「紫苑!」

 光はどんどん大きくなって、すぐに紫苑の体全体を被う。焦って叫ぶと紫苑は光の粒子になりながら静かに微笑む。

「待ってよ紫苑!」

 まだ聞きたいことが沢山あるのに、と手を伸ばす。心のどこかで、きっと届かないことを知りながら。紫苑はいつもそうだ。ボクの意見なんてお構いなしで、勝手にどこかへ行ってしまう。だから、ボクはいつも紫苑を追い掛けてしまうんだ。

 急に、手をこれ以上前に伸ばせなくなる。前に進めない。誰かがボクを引き止める。その瞬間、世界が海の底から地上へ引き上げられる。そこはボクの家で、紫苑の部屋ではなくボクの部屋だった。
 首だけで振り向くと、そこにはボクのセーラー服の裾をギュッと掴んだ少年がいた。

「ジュライ!」

 振り返って、感情のまま思い切り抱きしめる。
 急に懐かしさを感じる。旅の記憶を証明できるものは、今はもうこの体温だけだ。

「ありがとう。一緒に来てくれて」

 抱きしめる腕の力を強くする。ジュライがいなければ、ボクはこの広い世界で一人ぼっちだった。でも、今は記憶を共有できるジュライがいる。だから、小さな決意をボクは口にする。

「ねえ。また、旅をしよう」

 きっとジュライも賛同してくれる。確信に近い気持ちを抱いて手を差し出す。ジュライは驚きに目を丸くするが、ややあって頷く。

「うん」

 小さな二つの手が重なった。




 蘇芳はカクンと大きく首を揺らして眠りから覚める。懐かしい夢を見ていた気がする。瞬きを何回も繰り返しながら周囲を見渡す。ほど好いざわめき。列車がホームに入って来る音、構内アナウンスの音声、人々の話し声。うるさいほどの音が溶け合って絶妙なハーモニーを奏で、まるで自分が世界から切り離されるような錯覚を起こす。

「……って、ジュライ! 起こしてくれたら良かったのに!!」
「起きなかったよ」

 隣のベンチに座っているジュライに怒るように叫ぶが、少年は淡々とした口調で返す。もう、こういうところは変わらないんだから、と内心文句を言いつつ蘇芳は立ち上がり、小走りで走り出す。それにつられてジュライも立ち上がり蘇芳を追う。

「間に合わない〜」

 焦る二人と黒いコートを纏った人物がホームで擦れ違う。

「間に合わなかったら次っていつ?」
「一時間後」

 構内の時計を確認しながら尋ねる蘇芳にジュライは決まりきったことのように返す。

 二人が走り去った場所に少年がそっと立ち、二人を見送る。赤髪の少年は、少女の赤いおさげが派手に揺れるのを見て、少し頬を緩めた。

 また、会えるよね?

 何とか間に合った列車に乗り込んで、窓から駅を眺めながら蘇芳は心の中で問い掛ける。
 誰にではない問い掛けに自分自身で答えを出す。確信はあった。
 広い世界を見て回ったその先で――きっと、また会える。




(10/12/14)

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