或る漁師の述懐




 海が綺麗、それだけが地元の誇るところだった。
 高校を卒業してそのまま家の仕事を手伝うようになった。同級生はほとんど皆都会へ出て行った。観光客こそ来るものの、長居する人はいない。潮の満ち引きのように、何にも起きない穏やかな、退屈すぎる日々。退屈が壊れたのは、晩秋のことだった。

「こんにちは」
「こっ……こんにちは、買い物ですか?」
「えぇ、漁はいかがでしたか」
「ハハ、それなりです。あっ、持って行きますか」
「良いんですか?」

 その人が少し微笑んだだけでパッと花が開いたように思う。季節は冬に向かっているが、俺の心は春に湧く虫のようだ。そう、悪い虫。この女性は、ついこの前から療養に来ている若夫婦の奥さんだ。あまりに美形で、旦那の方は半分顔に傷痕があり、訳ありの雰囲気があり過ぎて、駆け落ちだの逃亡犯だのと年寄り連中は騒ぎ立てていた。旦那はほとんど外へ出ず交流はないが、奥さんの方は買い物に出たりした際に気さくに話しかけてくれる。美人だからジジイ共は大分籠絡され、噂は下火になっていた。

「規格外のもので良いならですけど」
「いいえ、嬉しいです」

 なんて言いながらも良いやつを選んでしまう俺も現金だ。彼女は高校を出たばかりだと話していた。年下なのになぜか敬語になってしまう気品がある。絶対この町には居ない。都会は皆こんな女ばかりなのだろうか。収穫品を覗き込む白い首筋が髪の間から覗く。腕も細くて、少し捲った袖の隙間から痣のようなものが見えて息を呑んだ。旦那はピアスだらけの悪そうな男だった。どうして女はああいう男を好むのだろうか。

「あれ、指輪? 前からしてましたっけ」
「気付かれました? 主人に貰ったんです」

 嬉しそうに眉を下げる女性は、芸能人が結婚会見でするみたいにするみたいに左手を顔の横に翳した。白魚のような手とはこういう手のことを言うんだろう。DV男の優しさに絆されるのは理解できないが、その笑顔が可愛らしくて俺の胸は哀れに痛んだ。

「あれ、そういや結婚は……?」
「実家が旧い家なので西洋式じゃないんですよ」

 若夫婦とは勝手に周りが言っているだけだから少しだけ予想が違うことを祈ったが、そうではなかったらしい。彼女は18か19、旦那は少なくとも20代半ば。俺だって給料の3ヶ月分くらい注ぎ込むさ。それは婚約指輪だっけ。そもそも俺給料制じゃないけどな。旦那の顔の傷については触れられない。東京では大変なことになっているらしいし、避難民なのでは、というのは俺の想像。旦那は思い切り関西弁だったけど。旧い家という言い方なら駆け落ち説は割とあるかもしれない。俺が親でも耳に沢山穴の空いている男は嫌だ。

「どこで旦那さんと出会ったんですか?」
「遠ーい親戚なので、昔からの知り合いなんです」
「ご両親に反対されませんでした?」
「え、なんでですか、されませんよ」

 躱されている感じがする。年下なのに、上手いこと掌で転がされている。

「はい、コレで良いですか」
「こんなに頂いて良いんですか」

 魚を袋に入れて渡すと、その人と顔を見合わせて笑う。可愛い。

「おい、いつまでくっちゃべっとんねん」

 低い声が響く。気づけば、近くに男が居た。見た目はチャラ男風なのに、鍛えられているようで、海の男よりも体格が良くて少し怯む。なんで鍛えてんだよ、喧嘩のためか、女を支配するためか。

「直哉くん、どうしたの?」
「あんま遅いから迎えに来たんやろ、手間掛けさせんなや」

 乱暴に女性の腕を掴むのに思わず声を上げる。

「なんや、なんか文句あんのか?」

 男が首をぐるりと回して俺を睨みつける。半分は大きな傷痕、もう半分はゾッとする程綺麗な顔をしていた。同じ男なのが情けなくなる程に。切長の目、長い睫毛、形の良い眉、傷がない頃にはそれがもう半分にもあったのだ。とんでもなくモテただろう。

「ごめんなさい、私が悪いです。もう帰りましょう」
「当たり前やろ」

 男を制するように前に出た女性に、その男は吐き捨てるように言う。文句をつけたい気持ちになったが、それより先に「ごめんなさい」と女性が俺に謝ったので何も言えなくなってしまった。

「魚たくさん頂いたんですよ」
「そんなもん店で買えや。大体もう飽きたわ」
「わかりました。明日はお肉にしますね」

 宥める様は介護か育児か。魚に飽きたと言うのに漁師としては異議を唱えたかったが、男の指にも指輪があるのを見てしまった。束縛男、と言いたいが実際俺に下心はあるから文句は言えない。女性が俺に会釈して、男の肩を押しながら帰っていく。小さくなっていく2人を眺めていたら、途中で肩ではなく指を絡め始めて、あーあ、と俺は心の中だけで唸った。






(2021/06/17)

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あきゅろす。
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