Cinderella step


 特有のエンジンの振動がシートに心地良く響く。海岸線を走る車内、窓に寄り掛かって日の落ちかけた橙の海を見つめた。

 呪術高専東京校と禪院本家を往復する日々。東京校は筵山麓にあり、京都は盆地だ。近頃山しか見ていない気がする。シーツの中で微睡みながら「海が見たい」と漏らした私の希望を直哉が聞いてくれるとは思いも寄らなかった。

 シートにしなだれ掛かって左側の運転席の横顔を見つめる。筋の通った高い鼻、長い睫毛、薄い唇、ハンドルを握る筋張った手。車を運転している姿は格好良く見えるという説を思い出した。禪院家に居ると洋服姿が新鮮に映る。

「なんや、そんな見つめられとったら顔に穴があくわ」

 私の視線に気づいた直哉が前方を見据えたまま、真剣な表情を崩した。

「普通のカップルみたいですね」

 私は少し愉しくなって微笑んだ。息苦しい禪院の家ではなく、お互い洋服を着て、私の希望を聞いてくれた彼が車を出してくれて海までドライブ。ついでに、直哉の車に乗るのも運転している姿を見るのも初めてで、完全に浮かれ気分だった。そんな私に、「普通って何やねん」と直哉は呆れ顔だ。

「予約の時間あるんやから、海はちょい寄るだけやで」
「はい」

 子どもに言い聞かせるみたいに直哉は告げる。行きつけの店がこの辺りにあるらしく、そのついでで海へ連れて来てくれたようだ。女が会席の場に同席することはほとんどない。直哉には馴染みのレストランでも私は行ったことがないため、そちらも普通に楽しみだ。
 直哉には相手にされなくなったので、足元に手を伸ばしてみたり、シートの下を覗いてみたり、直哉自慢の車を隅々まで探索する。隣で自由に過ごしていると、すぐに直哉からツッコミが入った。

「さっきから何してんねん」
「女性の忘れ物ないかなと思って」
「嬉々として探すもんちゃうやろ。この車に女乗せへんし」

 その言葉に安心はしないけれど、嘘はないと思えた。車に人を乗せた気配はないし、私以外の女性を乗せたことがないのはきっと本当だろう。特別扱いに喜ばない女はいない。
 嘗ては普通になりたかった。普通の子ども、普通の血筋、普通の術師、普通の私。けれどもう、普通じゃ足りない。あなたの特別になりたかった。でも、それはきっと普通のことだ。
 女性が恋人の領域に痕跡を残すのだって、自分が特別になりたいからだと思う。車のシートの下にピアスが落ちているなんてのは鉄板だ。牽制、きっと落としたなんて嘘。ガラスの靴は自ら落とすものだ。直哉は私のことを子ども扱いするし、多分そういう無知や純粋さを好ましく思っているのだろうけれど、私もすっかり後ろ暗い女の気持ちがわかるようになっていた。私も久しぶりに直哉に貰ったピアスをつけてきたけど杞憂だったようだ。

「それ、いつまで付けてるつもりなん?」

 指先で直哉に貰ったピアスを弄っていると、視線を寄越された。それに笑って答える。

「直哉くんが新しいの買ってくれるまで」

 高専入学以降は今日まで付けていなかったから、そこまで使い古されてはいない。捨てられなかったのが答えだ。暗に新しいものを強請ると、そういうんどこで覚えて来てんやろ、と直哉は独り言ちる。あなたが言わせているのだと思ったけど黙った。
 手慰みにふいとダッシュボードの引き出しを開けると、中に箱が入っているのを見つけた。貴金属を入れるタイプの掌サイズの箱。ピアスやネックレス等の女性の装身具を探してはいたが、流石に箱ごとは想定していなくて、戸惑いながら取り出す。掌の上に置くと、さして重量はない。徐にその箱を開けようとすると。

「何、人のもん勝手に開けてんねん」

 もっともなことを言われながら、隣から伸びた手に箱を引ったくられる。

「それ、直哉くんの?」
「それ以外誰がおんねん」

 ブレーキが踏まれ、静かに車が停まる。窓の外を見やると、すぐ海が見えた。感嘆の声を上げる私の隣で、ドアを開ける音がする。さっさと車を降りた直哉を追って、私も車外へ出た。
 ギリギリ日の入りには間に合った。海水浴のシーズンはとうに終わり、海岸に人の気配はない。まだ暑い季節だが、夕暮れ時の微妙に温い風が頬を撫で、スカートをはためかせる。砂浜に降りると、水平線から沈みかけの太陽が少しだけ顔を覗かせて、空が紫と橙のグラデーションを織りなしていた。振り返って、いつまでも降りて来ない直哉を呼び立てる。三歩後ろという言葉はもう忘れた。隣に並びたいし、そもそも私は女じゃなくて子どもだそうだし。直哉は女を大事にする方法を知らない、だから子ども扱いするのかもしれない、などと勝手に思う。直哉を好きだと認めてから、見える景色が変わった。直哉のことを少しは理解できるようになった気がしたし、過ぎゆく季節がこの目に美しく映った。渋々といった様子で歩いて来た直哉はどこか気怠げだ。ここまで運転してくれたのは直哉なのに、何故そんなに乗り気でないのか理解が難しい。

「見てください、夕陽が綺麗」
「そんなんこっからでも見えるわ」

 よぉ海でそんなはしゃげるもんやね、と冷ややかな視線を受ける。遊びになんて連れて行って貰えるような家ではない。窮屈で退屈な旧いお屋敷、そこでは直哉だけが私の光だった。その直哉とも、精々食事に行くか買い物に付き添う程度しか外出の経験がない。私にとっては浮かれない道理の方がなかった。「楽しいですよ」と告げると、「それはつれて来た甲斐あったわ」と思ってるのか思っていないのかわからない言葉を返される。

「こっちも考えがあったんやけど、お子様にはこの方がええかもな」

 ぼやくように言って、直哉はその場でため息を吐く。言葉の意味が全く分からず、首を傾げて直哉を見つめる。

「七菜香ちゃん手癖悪すぎるで」

 直哉の声は非難というより呆れの方が強い。近づいて来た直哉がポケットから取り出したのは、さっきの小箱だった。それが私の目の前に差し出される。

「早よ受け取ってや」
「私に……?」

 信じられない気持ちで箱を受け取る。だって、さっき箱を開けようとして隙間から一瞬だけ見えたそれは。
 箱を開けると、中にはダイヤモンドを据えた繊細な細工の指輪が収まっていた。中央に据えられた石が夕陽を反射して虹色に煌めく。一見しただけでわかる、これはエンゲージリングだ。
 中を確認して、再び直哉を見遣る。胸が詰まって、言葉すら出なかった。腰に手を当てた直哉が、首を掻く。

「ウチの慣習としては指輪とか用意せぇへんのやけど、七菜香ちゃん、こういうん好きやろ?」
「こういうんって……?」
「王子様とかガラスの靴とか、そういうん」

 揶揄うように笑われて、瞬時に顔が熱くなる。王子様なんて昔直哉本人に言ってしまったのだろうか。幼い私を呪い、そして感謝した。直哉が私を思って用意してくれたことがただただ私の胸をいっぱいにする。先程の直哉の言動からすれば、もしかすると夢見がちな私にもっと良いシチュエーションも用意してくれていたのかもしれない。目を伏せると涙が溢れそうになった。

「結婚してくれるやろ?」

 王子様らしくない私の王子様は私の返事を疑いすらしない。

 頷いて、これでハッピーエンドというほど現実は甘くないことは知っている。結婚がエンディングなのは御伽噺の中だけだ。でも、今はあなたの特別に酔いしれたい。

 王子様は居ないし、迎えにも来ない。でも、私が歩めば誰かの特別にはきっとなれる。私自身が歩かなきゃどこへも辿り着かなかった。これからだってあなたへ向かって歩み続けたい。たとえこの先に何が待っていようとも、もう後悔はしない。




(2021/05/16)

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