業火
廊下を歩いていると、目の前に黒づくめの男を発見して私の唇は弧を描いた。制服が黒なので黒髪というだけであっという間に頭のてっぺんから足の先まで黒のオタクコーデの完成だ。悲しきかな、禪院家は大体そんな感じになる。
「恵っ」
「名前で呼ぶのやめてくださいって前から言ってますよね、禪院先輩」
不機嫌そうに、整った顔を顰めて伏黒恵は振り返った。髪も瞳も、彼を創り上げる全てに遺伝子というものの不思議を覚える。彼の姿形は長きに渡り禪院に脈々と受け継がれしものを感じさせた。私なんかよりもずっと濃い血というものが創り上げた一つの美を眺めて形だけの笑みを作る。
「恵こそ、禪院を全員禪院で済ますなって言ってるよね?」
校内だけでも真希と区別つかないでしょうが。
「早口言葉ですか?」
ナチュラルに煽るんじゃない。
「俺と禪院は無関係なんで身内ヅラするのやめてください」
「寂しいこと言わないで。ウチはいつでも歓迎するわ」
「無関係って言ってんでしょう」
後輩につき離された。反抗期かしら。
「いくらで取り戻せるかしら……」
あの頃よりは値上がりしているだろう。今なら禪院家相伝の術式を持つ二級術師の値段はいくらだろう。掘り出し物過ぎて相場感覚がわからない。五条のクソガキ(歳上)に掻っ攫われた屈辱は今でも忘れられるものではない。
「なんで俺に拘るんですか」
私の嘆きに反応して、珍しく煽りでも何でもなく純粋な疑問として放たれた言葉。私に興味があったのか、少し意外に思う。
「私も一緒に堕ちてくれる仲間が欲しいのよ」
「それはごめんですね」
「割と住み心地良いわよ、生温い地獄で」
「感覚麻痺してんじゃないですか」
なるほど、鋭い指摘だ。だって、私は他を知らない。感心していると、至って真面目な顔で恵が追撃する。
「禪院を出るつもりはないんですか」
「私は真希とも真依とも違って充分な呪力に恵まれ、禪院家相伝の術式が刻まれている。出て行く必要なんてどこにある?」
呪術師にとっては血よりも深く濃い術式。才ある者として厚遇されている自負はある。嫡流にもかかわらず給仕として使われていた姉妹とは違うのだ。
「それは禪院先輩の本音ですか?」
禪院を出て行けと言うのなら苗字呼びやめれば良いのに。
「ウチが私を手放すわけないでしょ。才能がないならともかく」
禪院をやめたら彼は私を名前で呼んでくれるだろうか。いや、私が禪院でなくなれば、そもそも彼に執着する理由がなくなる。
「禪院を出たいんですよね、禪院先輩は」
もしかして、禪院呼びって嫌がらせなのかもしれない。
「私は禪院を出たいんじゃない。呪術師をやめたいの」
「……やめればいいんじゃないですか」
「あなたがそれを言う?」
お金で買われた存在。呪術師をやめることなんて端から選択肢にない。それは私も同じ。
無知は幸福だ。現代では他の生き方を容易に知ることができる。知っていてなお選べないことは何も知らないことより残酷だ。
禪院家では呪術の才がある者として厚遇された。けれど、同時に「男であれば」との声も幾度となく浴びせられた。
そんな中で耳にした、禪院家相伝の術式を有する男の子の話。嫉妬と慢侮と言葉にならない感情で私の心をぐちゃぐちゃにした後、禪院が男児を買い受ける話は立ち消えになった。執着するなという方が無理がある。
「まあ、俺も禪院に行かなくて済んだ身なので、できる限りは協力しますよ」
そんなことを、あの男の子が言うものだから笑ってしまう。
「恵は可愛いわね」
「馬鹿にしてんですか」
背伸びして頭を撫でると振り払われた。
術式を有する男の子の話を聞いてすぐ、汚い感情で心をいっぱいにしてまだ小学生だった私は出奔したろくでなしの息子とやらに遥々会いに行った。そこで見たのは義姉と慎ましく暮らすまだ小さな男の子。何だか急に全てが馬鹿らしくなってしまった。血や術式に拘る家も、そんなものを誇りに思っていた自分も。私の小さな世界はあの日壊れて、それでもまだ私は格子の中から世界を眺めている。
枷のついた世界で、それでも自分を持って生きる男の子を見つめて、私は虚勢で笑う。
「冗談よ。私は欲しいものは自分で手に入れるわ」
「……そうですか」
自分の力で格子を壊して、いつの日か。
「五条悟にいくらで恵譲ってくれるか聞いておいて」
「どうあっても禪院には行きませんけど、五条先生との喧嘩に俺を巻き込むのやめてください」
「私アイツ嫌いなのよ」
「知ってますけど」
生温い底無しの地獄も、あなたとなら沈んでいいと思えた。でも、あなたは私の地獄には来てくれないらしい。誰かの助けを願って待つようなロマンチックは残念ながら持ち合わせていない。結局私には地獄で生きるしか道はない。あなたの世界も別の地獄が待っているだろう。それならば、あなたの世界も私の地獄に染めよう。そして、いつかきっと、あなたを迎えに行く。
(2020/09/25)
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