遠雷と予感

 季節は私を置き去りにする。

 この家に来て初めての春だった。
 幾度季節が巡ろうと呪術師もその家も変わらない。築数百年の家屋内に音が満ちる。春を祝福するような、いや、違う。屋敷内に響き渡りながら、何者も寄せ付けない、誰に聴かせるわけでもないその音。卓越した技巧を要するのに、音からは努力の影が見えず、機械のような正確さは感情を雲がかっているように見えなくさせる。鍵盤の上を目にも止まらない速度で長い指が踊るように駆ける。ただただ聴き入っていると、直哉はふと指を止めて入口に立ち尽くしていた私に振り返った。
「なんや、黙って入って来よって」
「聴いたことのない曲だと思って」
「ここはカデンツァやから」
「カデンツァ?」
「即興ってことや」
「元は何という曲なの?」
 開け放った窓から、今日で見納めと言わんばかりに庭の桜の花弁が降り込み、ピアノの屋根の上を桜色に染めていた。遅咲きの桜も今日の強風で終わりになるだろう。窓を閉めると、雨の匂いがした。
「【春と修羅】」
「宮沢賢治?」
「……にインスパイアされた曲やね」
 春と修羅、思い出すのは数年前のある春の日のことだった。修羅は戦いの神。降り注ぐ桜吹雪の中、私は血飛沫に染まる修羅を見た。神様の気紛れで無二の強さを得た男との突然の再会。失ったものはもう取り戻せないことを突きつけられた。だとすれば、私はどうして甚爾の棄てた家にいるのだろう。
「誰のこと思い出しよったん?」
「多分、あなたと同じよ」
 気持ちを共有できる人がそばにいるのが少しおかしく思えて軽く笑うと、直哉は不愉快そうに眉を寄せて視線を鍵盤に戻した。
「俺のはただの手慰みや」
 そう言って、蓋を下ろした。手慰みと言うには余りに荒々しく、激しさを伴うピアノ。人には言えぬ何かの昇華の手段に思えた。
「残念、もっと聴きたかったのに」
「勝手に言うとき。こんなん楽譜通りに指動かすだけでつまらんわ」
「ならどうしてカデンツァを?」
 直哉のことを知りたい、その心の内に触れたい。いつの間にかそう思うようになっていた。
「言うたやろ、手慰みやって」
 会話は断ち切られる。手慰みに、今現在禪院家の話題を独占するものへと手を伸ばした。
「どうしたの、これ」
 直哉の髪が私の手の中で鈍く光り、さらさらと滑り落ちる。
 直哉が突然金髪に染めた、前触れもなく。どんな心境の変化だろうか。
「君も、前の方が良かったとか言うんか」
 私の手を振り払い、振り向いた直哉は私を蔑むように強く睨みつけた。明確な拒絶に息を呑む。
「……言わないよ」
 尚手を伸ばして、直哉の金糸の髪に触れる。脱色して手触りがすっかり変わっている。不可逆の変化、それを惜しいとも思わなかった。
 望む返事をしたはずなのに、直哉は更に顔を歪めた。
「その目、嫌いやねん」
 その目。直哉の言葉を反芻してる間に手首を掴まれ強引に引かれる。体勢を崩して、容易くソファに押し倒された。あとは流されるままだった。

 最初は、その面差しが甚爾に似ていると思った。次に、寂しげな少年の瞳が甚爾に置いて行かれた私自身に見えた。でも、直哉は甚爾とも私とも異なる存在だった。
 強い眼差しが、私の中の遠い過去を覗く。
 直哉は時折泣きそうなほど愛おしげな目で私を見つめた。それが甚爾に向けるものなのか、甚爾が私に向けていたものの再現なのかはわからない。ただ、その目を向けられる度、私はただの依代なのだと思い知らされた。直哉とあの日の甚爾を繋ぐ依代。急に私はここにいると叫びたくなる衝動が疼く。その手に触れられているのは私だ、その目に見つめられているのも私だ。それがどうしてこんなに虚しいのか。
 足りない何かを埋めるはずの慰め合いは、いつの間にか私をより空っぽにした。甚爾の永遠の不在を突きつけられ、直哉の中の私の不在を思い知る。甚爾に抱かれている間は、私が必要とされていることを信じられた。でも、直哉は違う。この男は本来的には誰も必要としていない。一人で成立している生き物だ。私を抱くのもただの感傷に過ぎない。私は、この男に必要とはされていない。
「何泣いてんねん」
「……別に」
 いつの間にか流れていた涙をそっと隠す。
「『別に』やないやろ。そんなに甚爾君がおらんのが寂しいん?」
「寂しい……そうかもしれない」
 曖昧に頷くと、少し揶揄うような笑みが消えて舌打ちが降ってきた。
「そんなに俺が嫌なら言えや」
「嫌じゃない。虚しくなっただけ」
 ここには甚爾も、あの日の私もいない。直哉がそれに気づいた時、私はまた置き去りにされるのだろう。拭ってもまだ涙が滲む私を見て、直哉は目を細める。
「甚爾君はどうしてたん」
 少し迷うように直哉が口を開いた。私に気を遣って歩み寄ろうとしているのだろうか。一人きりで生きていける男が。そう思うと、何だか急に一人で笑い出してしまいそうな気持ちになる。
「甚爾の真似なんかしなくていいよ。あんまり似てないから」
 直哉の首に腕を回して、自分から唇を重ねた。髪を撫でると、甚爾とは違う手触りがした。
 直哉は甚爾の何を知っていたのか。果たして本当に甚爾になりたかったのか。直哉は甚爾という存在と自ら距離を置いているように見えた。結局私達は何も共有していないのかもしれない。

 永遠の瞬間というものがある。
 決して忘れることのできない出会い。私の原点であり、青春であり、疵であり、光だった。
 もし再びそれが目の前に現れたら、私は全てを棄てて追い縋るのだろうか。目の前で直哉を殺されて、それでも私はその屍体の前で抱き合えるのだろうか。

 甚爾の翡翠の瞳とは違う、金髪によく合う黄金色の瞳を見つめる。同じ眼差しだと思ったのに、実際は違った。人は見たいようにしか見えないのかもしれない。
 直哉の嫌いな私の目。私が過去ではなく今の自分を見て欲しいと思うように、直哉も或いは。
「この家を出ようと思ったことはない?」
「は? なんで俺が出て行かんとアカンねん」
「もしもそう思う時が来たら私も連れて行ってね。どこへも置いて行かないで」
 もう少し浸っていたい気もしたが、伝え損ねる言葉はないよう思いの丈を吐き出す。
「俺はどこへも行かへんわ」
「……うん」
 それはきっと本当だろう。直哉はこの家を出て行きはしない。私を置いてどこへも行かない。それが嬉しくもあり少し寂しくもあった。
 甚爾の棄てたこの場所で、甚爾に憧れた少年と私はきっと息絶えるのだろう。それは多分不幸なことではない。

 季節が歩みを止めることはないように、私もきっと止まり続けてはいられない。たとえこの道に陽が射すことはなくても、一人でないなら進めるような気がした。外は雨が降り始めている。次の季節はもう目の前まで迫っていた。




(2022/05/01)


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