或る少女の述懐

「苗字」

 放課後、教室から出るとすぐに呼び止められた。

「迅くん、どうしたの?」

 隣のクラスの迅くん。同じクラスになったこともなければ会話をしたこともない。

「ちょっとおれとお話ししてくれないかな」

 問われた瞬間、廊下の手前と奥にさっと視線を走らせた。人気は疎らだ。特に誰かに見られているということはなさそうだ。何か、いたずらの類を警戒してしまった。一度も話をしたことのない人間からの改まった話というと、良くない想定をしてしまう。それも失礼な話だ。

「何か用?」
「用って程でもないんだけど、少し話がしたいなと思って」

 ほら怪しい。

「苗字は部活は?」
「帰宅部だよ」
「あーなるほど」

 何がなるほど? いや、この時間に帰ろうとしているからか。

「迅くん暇してるの?」

 悪巧みでなければ暇だとしか思えない。しかし、彼は顔の前で手を振ってすぐに否定した。

「いやいや、おれは忙しいよ」
「それなら邪魔しちゃ悪いから私は帰るね」

 じゃ、とすぐさま踵を返そうとする私。

「待って待って」
「用はないんでしょ?」
「あるよ」

 用って程でもない、とその舌の根が渇く前に言っていなかったか。

「だから何の用?」

 訝しんでそう問うと、彼はうーんと軽く唸った後思いついたように顔を上げ、こちらを真っ直ぐに見据えた。

「デートしようか」
「は?」

 真っ赤な陽射しが廊下を照らす。周囲に人はいない。それなりにロマンチックになり得る場面で、信じられない気持ちで迅悠一の目を見つめ返す。その眼差しに揶揄いや悪ふざけの色が見えず、逆に困惑する。大真面目に言っているように見えるのに、その視覚情報を信じられる気がしない。

「無理」
「そっか、弱ったなぁ」

 困惑したままとりあえず拒否の返答をすると、彼はがしがしと頭を掻く。本当に弱っているのかどうか、よくわからない。言葉の額面通りには受け取り難かった。

「今から帰り?」
「……ええ」

 さっきからそう言ってるでしょ、と言いたかったが、人は要求を拒否してばかりだと罪悪感のようなものが生まれてしまうものなのかもしれない。否定の言葉を続けるのは気まずく、大人しく頷いた。

「それなら途中まで一緒に帰っていい?」
「そのくらいなら構わないけど……」

 私が答えると、迅くんが「よかった」と笑った。私はその瞬間、しまったと思った。これこそが彼の狙いだ。デートなどと絶対通らない提案をしたのは一度断らせて次の要求を飲ませるためだ。そう直感するのに、迅くんがそんなことをする肝心の理由が全くわからなかった。

 しかし、一度断らなかった以上、一緒に帰る以外の道はない。実際、私に何の不都合もないし。その後は別に、無難な話題選択で無難に会話が進行した。迅くんは気さくなタイプだし、気まずい沈黙が流れることもなかった。
 途中、大通りに差し掛かる。夕方を過ぎ、帰宅途中の車と人で交通量が多く窮屈に感じる。

「ちょっと回り道をして行かないか?」
「いいけど……」

 迅くんに誘われて路地に入る。そんなに遠回りにはならないが、ただの住宅街だ。迂回する意味が理解できなかった。

「あっ、あの公園。昔遊んだっけ、懐かしいな」

 迅くんが指したのは、住宅街にある狭い公園だった。小学生が数人遊んでいるようだ。

「家この辺りなの?」
「いや違うよ」

 遠回りする理由ではないようだ。

「迅くんの家ってどの辺り?」
「あっちかな」
「えっ!」

 迅くんが指す方角は来た道だった。

「どういうこと?」

 一緒に帰ろうなんて言うものだから、当然のように迅くんの家も同じ方向なのだと思ってた。

「単に苗字ともう少し話したかっただけだよ」

 その言葉を聞いて路地に誘われついて行った迂闊さを悔やむ。しかし、閑静な住宅街といえども人通りがないわけではない。何かするという気はさすがにないか。目的が終始読めない。

「もうここでいいよ」

 家まであとは一本道だ。目的の読めない、帰宅途中でもない男子とこれ以上一緒にいる理由がなかった。

「そっか、寄り道せずに帰れよ」

 住宅街のどこに寄り道するというのだろう。早く離れたい一心で私はとにかく頷いた。

「また明日、学校で」
「またね」

 日時も場所も曖昧な挨拶を返して私は背を向けて歩き出す。一度視線だけで振り返ると、彼はのんびり散歩でもするかのように来た道を戻って行った。


 その後、言われたからではないが、真っ直ぐうちに帰った。自室でくつろいだ後にお風呂に入り、ほかほかと温かい身体でリビングに向かうと、夕食の用意がほとんど調っていた。ナイスタイミング、こういうのを幸せと呼ぶのだろう。誰も見ていないテレビからは地方ニュースが流れていた。

『今日午後6時頃、三門市で車が歩行者をはねる事故がありました。この事故で、横断歩道を渡ろうとしていた**さんが死亡、他3人が重軽傷を負いました。車を運転していた**容疑者がその場で業務上過失致死傷の疑いで現行犯逮捕されました。』

 三門市という単語に反応してテレビに目を向ければ、見慣れた交差点が画面に映っていた。日の落ちた大通りは、いつもの通学路だ。人だかりと警察官の姿が、見慣れた風景を見慣れないものにさせている。カメラがアスファルトに染み付いた血痕を捉える。ぞっと恐怖の感情が視覚情報から身体の末端にまで伝導する。今、午後6時頃とキャスターは言ったか。いつも帰りはそのくらいの時間帯になる。今日だって大して変わらない時間に帰ったはずだ。よかった、今日はその道を通らなかった。もし通っていたならば、今キャスターが読み上げているのは私の名前だったかもしれない。
 命あることの安堵とともに、食卓を振り返る。大丈夫、日常はここにある。

「……あれ?」

 今日、私があの道を通らなかったのは迅くんに回り道を勧められたからだ。その目的ははっきりしなかった。最初は話をしようと言われ、一緒に帰って回り道して、真っ直ぐ帰れと言われた。話をしようと言ったのは、時間稼ぎ。回り道したのは大通りを通らないため。真っ直ぐ帰るよう言ったのも、間違っても大通りに出ないため。そう考えるとしっくり来るのではないだろうか。面識もない迅くんが今日突然私に話しかけてきたその理由。穴だらけの理論だけど、不思議に私はそう確信してしまった。迅くんにすぐに問いたい、その真意を。けれども、連絡先なんて知らない。ああ、そうだ。「また明日、学校で」そう迅くんは言っていた。


「迅くん」

 珍しく早起きして学校で彼を待ち伏せしていた。動いていることが信じられない心臓がドクンドクンと脈を打つ。

「やあ、苗字。おはよう」

 迅くんは私に振り返るとにっこりと笑った。その彼の肩に、私はほとんど掴みかかるように触れた。

「昨日のあれ、どういうこと?」
「あれって?」
「どうして助けたの? 何を知ってるの? 何が……」

 興奮冷めやらぬまま彼の肩を揺さぶり、矢継ぎ早に要領の得ない質問を繰り返した。迅くんは困ったような微笑みを浮かべていた。違う、私がしたいのはこんなことじゃなくて。

「ありがとう」

 伝える言葉を間違えていた。まず伝えるべきことは。迅くんは追及されて困惑していた。こうなることがわかっていたのに彼は私を助けてくれたのだ。私は追及する言葉を呑み込んだ。

「……何が?」

 迅くんがビックリした表情で問い返す。そんなに驚くことはないだろう。

「ごめん、大事なのはそんなことじゃなかったね。迅くんが何を知ってるかとか何を考えていたとか何が見えたとか関係ない。迅くんのおかげで私は生きてる。助けてくれて、ありがとう」

 肩を掴んでいた手を下へと移動させて、彼の両手を私の両手で包んだ。伝わっているだろうか。迅くんは少し肩を震わせて笑った。

「……いや、こちらこそ」
「……何が?」

 何がこちらこそなのだろう。感謝されることは何もしていない。

「いや、何でもない」

 迅くんはまだ肩を震わせて笑っていた。ひとしきり笑い終わった後、慈しむような目で私を見て微笑んだ。

「ありがとう、苗字」





(2019/04/09)


あきゅろす。
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