雪月花
この世界は常に冥天が支配していて、空の移り変わりによる時間の概念が酷く曖昧だ。
にちりん こうみょう
そもそも日輪の光明が届かず、朝夕という境界が恐ろしく薄い。
常夜の世界の住人は皆、人間では及びもしない長い時を生きる存在。光を必要としない民であったし、夜闇は彼らの母であり本質だった。
ここは根の国黄泉の底。死した魂を裁き罰する、最も過酷な死者の世…地獄である。住まうのは、懲罰を受ける罪人と懲罰を与える獄卒と、同類の鬼や化生。その魑魅魍魎を束ねる王───────
生きた人間などいない、力ある者だけが絶対の支配を強いている異形の郷だ。しかし人間に近い存在もいる。
あい
人と妖異の間の子…混血児。数こそ恐ろしく少ないけれど、確かに黄泉の底において、彼らは存在している。最も卑しい身分、生まれ損ないと呼ばれながらも。
「───────……」
地獄の底にも雪が降る。灼熱の大窯と並んで畏怖される、極寒の刑場に程近いこの場所では、毎日のように雪が降る。
しき
彼女が降り頻るそれを眺めて過ごすのも、千年に渡る日課だ。しかし好いて見ているのでない事は容易に知れる。何故なら、虚空を舞う白片をじっと見据える双眸は、穏やかさには程遠い…怨恨混じりの険しい眼光なのだ。
「寒い…」
「これしきでか?」
ぽつりとした独語に返る、嘲りを含んだ声。目をやれば、やはり口端だけを吊った嗤いでこちらを見ている紅い鬼、焔爾がいた。
え び
色深い葡萄色の髪と、名前にそぐった鮮烈な猩々緋の双眸は、一目で彼が純血だと解る。
「何をしてる」
「…別に」
は、と凍てつく呼気が色を醸して漂う。数少ない内の一人である、生まれ損ないの娘。その香染色の長い髪を押さえ、彼女は伏せがちに視線を流す。
桜を重ねたような薄紅の双眸と雪景色が相俟って、淡い彩りを宿した風貌は、どこか溶け消えそうな希薄さを醸していた。
…しかしそれも焔爾の居場所を意識の端に留めた途端、ばっと感情的に塗り替えられ霧散する。
「…待て、そもそもお前こそ何をしてるんだ…!」
雪を踏み締める独特の音。面を上げれば、眼前に彼が突っ立っている。
裾から僅かに覗く肌には、巻いたばかりの布。過日に負った未だ治り切らぬ傷は、退魔の神通力で付けられた、致命傷手前の重傷だった。
よって今は父親である城主自ら静養を言い渡され、焔爾はしばらくの間養生している。
看病の甲斐あって大分癒えて来た。かと思えば、今度は暇を持て余してかじっとしていられないのか。目を離すと寝床からいなくなっているのだ。嫌な意味でこちらは気が抜けない。
てら
雪の舞う庭に衒いなく下りて来られては、真新しい布も身体も濡れてしまうと言うのに。
「動き回るなと何度言わせる…」
「暇だ」
元より彼と居を共にし、身の回りを世話していた彼女は、焔爾の父親である城主から療養中の面倒を見るよう言いつかっていた。その為、勝手気儘な焔爾を放っておく事も出来ない。
かつて彼女…六花は城主に拾われてから、兵役は元より。小間使いのように細々とした雑務やら、暇潰しの愚痴やら。
要は気紛れな城主に付き合う、遊び相手をこなしていた。因みにこの遊びと言う語の前には”割と命懸けの“と言う修飾語句が付く。
が、彼の息子が武勲を立てた褒賞を与える際、彼が少女を名指しして身許を寄越すよう要求してから後。名実共に六花は息子…焔爾の所有物となった。
焔爾曰く非常食、周囲曰く従僕。まあ羽虫よりは多少マシかどうか、と言った所だろう。生まれ損ないの立場など、所詮元よりその程度だ。
しかし身許が移ったからと言って、さしたる変化はなく。話し相手やら気紛れに付き合う相手が、親からその子になっただけだった。
何せ親子は揃って生活力に著しく欠け、特に独身貴族を謳歌し、妻を持たない焔爾は酒と喧嘩と女があれば良い。と極度の不摂生と勝手を憚らない。
そんな家主の世話を幾百年月していれば、次第に彼女も彼に対する畏れや遠慮という物は薄れた。いつしか二人は、天と地程にも違う身分だと言うのに、さも対等に言葉を交わす間柄となった。
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