始刻


         しじま
 耳鳴りがする程静寂に冴え切った闇の中を、一人の童女が往く。伸ばした指の先さえ見えない…無明の地を、何故か一人きりで。
     てのひら
 小さな掌を擦り合わせ、覚束ない足取りが、躊躇いがちにそろりそろりと。見通す事の出来ない漆の色の世界を、踏み締めている。


 ここは何処だろう?真っ暗で何も見えない。とても寒くて、冷たくて、手足が刺すように痛む。


「かかさま…」
       びょうぼう   めいあん
 そこは全くの渺茫とした冥暗、影すら許されぬ氷闇の中。時折ちらりと光っては消える、青白い炎に怯えながら、か細い声の主は必死で歩みを進めた。

「母、さまぁ…」

 泣きじゃくりながら、童女は闇の内に、母親の姿を捜し求めていた。歩き疲れた足は、最早棒のようだ。しかし子供は立ち止まらない。
 ここがどんな場所なのか、感じているのだ、本能で。ここは自分と同じ者が生きている世界ではない。恐怖と力だけが絶対の支配を強いている、人外の世界なのだと。

「助けて…」

 一体、どうしてこんな世界に、自分は放り出されたのだ。泣きながら月を見ようかと手を引いた母親は今、何処にいるのだろう。

「母さま…っ助けて…」



 そうして何刻も。気が遠くなる程の時を、当所ない闇の世界で彷徨い、遂に彼女は己が意図的に取り残されたのだと…最も残酷な可能性に思い至る。

 母親は何処にもいない、ここにはいない。自分は放り出されたのだと、気付いてしまった。だってこんなのは有り得ない。
 こんな…生きているモノなどないような世界に放り出されるなど。そんな人智を超えた事が出来るのは、母親くらいしか──────


「…どうして」

 打ち捨てられた…その可能性を、現実として飲み込む。沸々とゆだる激情を孕み、泣き濡れた目頭はじんと熱を上げた。
 寒さと恐怖に竦んでいた、戦慄く体の奥底から込み上げる物がある。血潮が、感情に応じて沸き立った後、理解と共にすとんと引いて凍えた。

 その情動を何と呼ぶべきか、例え幼くとも解る。心を燃やし、凍てつかせ、脳裏を巡る。それは失望と言うより他にない。

「嫌だ……」

 寒い、冷たい、けれど身の内を焼き尽くして尚盛る。心に激情の灯が点いた。母親にこそ置き去りにされたのだと、自分は見殺しにされたのだと…悟ってしまったから。

 たった一人の肉親に裏切られた。もう、ここから逃れられないし、何処にも母親はいないのだと。


「………なんで」
          そうぼう
 気丈な母親が濡れた双眸を細めながら、物凄く悲しい表情をして言った。月を見に行きましょうと。母の涙を見たくなくて、うんと頷いて手を繋いだ。

 近くの社で桜が咲いているから、そこから見る月はきっと、母の涙を止めてくれる程美しいだろう───────


 そう思って。けれど鳥居を潜った直後、眼前が闇の触手に絡め取られた。悲鳴を上げる間もなく、母の姿が見えなくなって。月も鳥居も桜も消えた。残されたのは自分一人。

 彼女は震え上がった、また母が泣いてしまう。こんな恐ろしい所に母を一人にしておけない。捜さなければ…

 そうして永遠に思えるような時を過ごし、悟ってしまったのだ。

「どうして!」

 その小さな胸の内に息吹いた灯は、悲哀と憤りを糧に、焔と呼べる程苛烈に盛る。押し殺しても底から込み上げ、湧き出でる怒り。信じ抜いていたからこそ、胸を貫いた根深い憎しみ。
    かいこん
 透明な悔恨は、底の底から呼び起こす。歯止めの利かない本能を、殺意と言う名の衝動を──────



 子供の幼く無垢な心は染まってしまう。ゆらゆらと踊り、燃え尽きる事のない焔は、憎悪と言う名の力だ。


 

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あきゅろす。
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