帰刻



「…始めろ」
      あしもと
 がしゃりと足許で鳴いた骸とも瓦礫とも知れない雪下の堆積物を踏み締め、血の匂いのする風の中、濃淡の色彩が立ち並んでいる。
 淡い方が冥天を仰ぎ、白む呼気を払うように腕を伸ばして、すっと細い指先で空を切る。切り、結ばれた印契が大気に微かな振動をもたらした。

 やがて、金属を打ち鳴らした余韻のような戦慄きが空間に満ちる。纏った打掛の真っ白い袖が翻るのを気にも留めない澄んだ声が、高らかに闇を裂いた。
 ぎんぱ     つき
「銀波に返し魄の元…聞こし召せ!」

 呪言に応え皮膚を裂き、四肢を貫くような烈風が闇の渦巻く空の一点へと吸い込まれて行く。それに巻き上げられてたなびく長い髪は香染色、垣間見える横顔から覗く虹彩は桜に似た薄紅。
 ふわりと煽られた白布から覗く四肢は華奢で、凛と空に立ち向かう姿は花と喩えて過分でない。


───────乞い願う

 この日をどれだけ待ち侘びていたか
 あの封じの扉が解き放たれるのを。

 千年だ。生きながらに彼岸、黄泉の底へと打ち捨てられた後、ただ復讐心だけを頼みに生き永らえて来た。
 今や人とは言えない本物の化生となった身で、此岸の中津国の土を踏むとは皮肉だ。いっそ愉快でしかない。
 ようや
「漸くだ…」
    わだかま
 眼前に蟠る鳩羽色の不透明な陽炎は積年の思いが通じた証、その空間だけはぐにゃりと捩くれ景色が歪曲している。
 幾百幾千の歳月世界を隔てて来た戒めが、遂に綻び解かれようとしていた。まだほんの小さな歪みに過ぎないけれど、それが亀裂となって広がりばっくりと、黄泉の軍団を容易く招き入れる程に肥大化するのも最早時間の問題だ。
           ぎょうこう
 その先遣に選ばれた僥幸は表し難い。自らを拾ってくれた頭目の命とあらば尚の事。生まれ損いと言う、屈辱的ながらも純然たる同族よりは僅かながら、術式に長けた血がこの時ばかりは有難かった。

「…まさかこの身で今一度かの地に舞い戻る事が出来るとは…頭に感謝せねば」

「そう思うのならヘマだけはするな、生まれ損い」

「──────…先に行く」
 れいえん
 冷艶な笑みを浮かべた色彩の淡い方は今や年頃の娘の背丈となった、あの童女だった。
          としかさ
 並ぶ濃色は同じ程の年嵩の男だ。彼女は迷わず鳩羽色の空間に身を投げた。追って男も飛び込むと、そこは静かに闇色の瘴気に覆われた…




 同時刻、都心のビルの屋上に闇色の陽炎が揺らめいた。そして人影が一つ二つ生まれた後、双方向に散って行く。
 その虚空には月が浮かぶ。ほぼ満月の…常より近く感じる程の肥大した月、それが始まりの夜。






 少女は人間が嫌いだった、彼女は人を喰う鬼だった。
 少女は鬼も嫌いだった、彼女は人の混血児…最も卑しい身分とされる生まれ損いだったから。

 そして今少女は佇む。見た事もない街並みを見下ろす雑居ビルの屋上に───────


「先ずは異能狩りだ…!」

 人々は誰も気付かない、生まれた不穏の影に。再びの災厄を告げる天上の警鐘に。

 桜が咲くには少し早い花冷え時分の月下…古の世に跋扈した魑魅魍魎を統べる者達との戦いの幕が、静かに切って落とされていた。




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