●リーフグリーン
単純そうに見えて難しいモチーフは山程ある。代表的なものがりんごだ。
緑がかったりんご、黄色いりんご、真っ赤なりんご、紫がかったりんご。
今日のりんごは青かったので、下に少しリーフグリーンを置いた。その上にネイプルスイエローを全体に置く。この下地の作業は、大事だと思う。
りんごを真にりんごらしく描くのは相当練習しなければ難しい。いや、むしろ練習しても難しいのだ。
現に、散々描いてきた自分も苦戦している。
着彩のモチーフを睨み付けながら、雲雀はそんなことを考えていた。
なんだってりんごが水に浸からなければいけないんだ。筆をバケツに突っ込み、水筒を持って外階段へ出た。
手摺に凭れてお茶を一口含む。こうして絵から離れる時間も大切だ。目が慣れてしまうと狂いに気付けなくなる。
ふと目に入ったのは、向かいの公園の木々の輝くリーフグリーンだ。上から見下ろすと葉は輝いて見える。しかしもうリーフグリーンはいい。
首を回すとごりごりと嫌な音がした。
「あの」
講評が終わりモチーフを片付けていると、一人の女子に話し掛けられた。ちらりと一瞥をくれてやる。
「雲雀くん、先端の彼と仲良いの、かな」
なんだディーノの話か。雲雀が何も言いも頷きもしないでいると、女子は続けた。
「彼に、会って話がしたい、んだけど、なかなか会えなくて」
「何。早く言いなよ」
いちいち言葉を切りながら話す彼女にしびれを切らした雲雀が先を促すと、怯えたように肩を揺らした。雲雀は早くモチーフを片付けてしまいたい。
「その…、これ、彼に渡してもらえませんか」
まるで賞状を両手で受けてお辞儀をする小学生のような格好でつき出された手紙は、ハートのシールで封をしてあった。なんてベタなラブレターなのだろう。
雲雀は鼻で笑った。
「こんなこと頼む暇があるなら、今自分で渡しに行けばいい」
「…へ」
「会えないんじゃなくて会う気がないだけだろう」
その通りだ。今頃の時間なら、ディーノは一人で残って自分のへなちょこの後始末をしている。何しろ汚れを拭くと二倍に汚す男だ。片付けに人の倍はかかる。
雲雀がすまし顔で片付けを再開した横で、彼女は呆然と突っ立っていた。雲雀がそんな頼み事を快く引き受けるとでも思っていたのだろうか。それに雲雀としては、ディーノの気が反れるようなものは遠ざけたかった。
「(あの目を間近で見られるのは僕だけでいい)」
臭い。ごみの多い海岸のような臭いだ。
「っと、ミスった…!」
時刻は夜九時も近くなり、消灯されてしまった予備校のモチーフ室で、海水を床の上にひっくり返したへなちょこ金髪がいた。
「…何やってるの」
「え、うわ、恭弥!」
電気が消されているので外から入る街灯の灯りでぼんやり照らされているモチーフ室は、なかなかに不気味だ。
雲雀は呆れてため息を吐いたが、仕方無く始末を手伝ってやることにした。モチーフ室をこれ以上臭くされてはたまらないからだ。
用具入れから雑巾を持ち出してディーノに投げてやる。自分の分を取るのも忘れない。彼一人に任せてはどうなるか分からない。
「お、サンキュ」
「…ちゃんと受け取ってよ」
しっかり受け取り損ねたディーノが雑巾を拾いに行くのを見ながら、二度目ののため息を吐いた。
「おかしいなぁ、拭いても拭いてもべたべただ」
「水分を吸いきった雑巾じゃ拭けないのも当たり前だろ」
「そっか!」
ディーノに雑巾を持たせること自体が間違いだったと思い直し、雲雀はディーノからべちょべちょのそれを引ったくった。
内心何で自分がと思ったが、やはりモチーフ室が潮臭いのは嫌だ。他のモチーフにも移りそうな臭いである。
「いいって! 恭弥がやることねえよ」
「きみにやらせるといつまでも終わらなそうだ」
「うう…」
ディーノが止めてきたがすかさずそう言ってやるとしゅんとなった。拗ねている。
納得の行かない顔のディーノを余所に、雲雀はてきぱきと掃除を終わらせていった。最初から一人でやれば良かったと思いながら雑巾を濯ぎに行った。
戻って来るとディーノが恥ずかしそうに小さくなって隅に立っていた。
「恭弥、ありがとな。…なんかすまん」
「…きみって本当に間抜けだね」
「そうだよな…」
雲雀がため息混じりに言うと、ディーノはいよいよ悲しい顔になった。
「あー、もー…」
「何でそんなに落ち込むの。いつものことだろ」
「いや、そうだけど…」
俯いて顔が見えない。薄暗い中にぼんやり照らされる金髪は、結構綺麗だ。
ぼうっと見ていると、不意にディーノが呟いた。
「好きなやつにいいとこひとつも見せられないなんて、格好わりぃなぁ…」
「…」
「…あっ、わり! まだこんなこと言ってて…」
雲雀が無言でいるのにディーノが慌てて訂正した。しつこいと雲雀に嫌われると思ったのだろう(実際そうだが)。
雲雀はその事は最早どうでも良かった。ただ、違うと思った。ディーノの好きなところなら、一つある。
「…それは違う」
「?」
「僕はきみの、目が好きだよ」
「…!」
思い出すだけで、欲情したように喉がからからになるあの瞳。
雲雀が薄く笑みながら告げると、ディーノが驚いて顔を上げた。
瞳からイエローオーカーの輝きを強く放ちながら。
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