[通常モード] [URL送信]
34


不思議なことに涙は出なかった。涙を流そうと思うこともなく、悲しいと思うこともなく、ああひとつ終わったなこれでというへんな安堵を覚えたくらいで。不思議だ。あれだけ好きだったのに。あれだけ胸を満たしていたものが今離れていったというのに。

「人間って不思議だな」

呟いたら、胸の内がすかすかする気がした。すかすかした。空っぽになったような気はしたが臓器が詰まりに詰まったこの体のどこが空っぽなんだと自分に問いかけると、空っぽじゃないなと返ってきたのでやはりおれのなかみは空っぽじゃなかった。




別れたの、と問いかけられた。ああ別れたよと答えた。目の前には長門有希、その小さな手には銀色のフォークが握られており、ああその握り方はちょっと行儀悪いぞとおれは手を伸ばして修正してやった。目礼。
別れたの、ともう一度問いかけられて、別れたんだとはっきり答えた。答えたらほんの少し胸が痛んだ気がした。それに気付かないふりをして、ケーキのちょうど真ん中にさっくりとフォークを突き刺す。甘ったるいのは嫌いなので甘さ控えめなんとやらというやつを頼んでみた。甘すぎない。甘みがほとんどない気がした。しょっぱくないかこれ。

「なぜ別れたの」

「なぜって」

長門は目の前のケーキにかじりつきもしないで、フォークを持ったままこちらをじいっと見ていた。この目に見つめられるとすべてをすかして見られている気がして落ち着かない。長門に見られて困ることは、ない……とは生憎言えず、あるのだが、まあ見られても長門ならいいか、長門ならばかにしない、長門なら。

「なぜって、」

言葉に詰まるおれを見つめる長門。どうして別れたのかなんて知らない。別れましょうと言われたからうんと頷いただけだ。それだけ。ただそれだけ。
理由はないかもしれないと呟くと、長門の目が心持ち大きくなった気がした。眼窩からころりと飛び出てしまいそうに大きい、きれいな、長門の瞳を見ながらケーキをまたひとくち。

「意味がわからない」

多分長門だからこう言われるだけで、ハルヒとかに言ったら意味がわかんないわよ!と怒鳴られてケーキをひっくり返されていたところだろう。心の中で長門に感謝しつつ、おれはまたケーキを食べた。どうでもいいけどほんとにしょっぱくないかこのケーキ。パティシエが新人で間違えて塩入れちまったんじゃないのかと疑ったがベテランぽい人だったし違うのかな。俺の味覚がおかしくなっただけか。

「おれにもわからないよ」

俺にも。
長門の言葉に淡々と答えると、長門はがちゃんと音を立ててアプリコットの紅茶カップを倒した。と言うのは語弊があるが、長門がテーブルの上に手を軽く置いたら自然にカップが倒れたのだ。テーブルを叩き付けるほど大きな動作をしているようには見えなかったが、もしかするとこれはもしかしなくても怒っているのか。
怒っているのか長門。誰に対して?おれに?それとも別れたあいつ?

「怒るなよ」

「怒ってなどいない」

否定する声がさ、ほんの少し熱を含んでることにおまえは気付いてるか。
感情ってものが増えてきたよなあこいつにも、と思いながら最後のひとくちを咀嚼した。しょっぱい。しょっぱいなあこのケーキ。ワンコインもかけて購入したのにこんな味じゃ文句のひとつでもつけたくなるぜ。
どうでもいいけど長門、そのケーキ食べないならおれにくれないか。手を伸ばしたら皿を避けられた。食べたいんだなお前も。

「どうしてあなたが」

「なにが?」

「どうしてあなたが、」

長門は言葉を探しているみたいに口をパクパクさせていたが、しばらくしてから言葉が見つからないみたいに黙り込んで俺を見上げた。小さな頭を撫でようと手を伸ばしたら指先がぬめっていた。ペーパーナプキンで指先を拭う。濡れている。なんで濡れているのか皆目見当つかないおれに長門は手を伸ばしてきた。触れる指先。今度は長門の手が濡れた。かと思ったらぐいと頬を押しやられて右隣にあったガラスに顔を向けられる。よく磨かれたガラスにはおれの姿とそんなおれの頬を押しやる長門が映っていた。なんだおれ泣いているから。ああだからこんなにも。

「しょっぱいなあこれ」

長門の手が離れた。それでもおれは前を向かない。いびつな世界でおれの顔がにじんだ。胸の中がすかすかだよ。長門、おれも言葉が見つからない。人間なのになあ。恥ずかしいなあ。

「しょっぱいよ、ほんと……」

たらたら流れる涙はテーブルの上に落ちていった。長門の声が耳に届く。わたしが、わたしであれば。わたしであればあなたを。長門は優しいなあ。男であればあなたを。優しいから、そんなこと言わなくていいよ。そうしたらあなたと。なあほんと、長門ちょっとでいいから静かにしてくれないか。あなたをこんな顔には。こんな顔ってどんな顔だ情けないこの顔のことかおあいにくとこれは自前なんだ――。

あいつの子供がおなかのなかにいればいいのになあと思った。でももう叶わない夢だ。どうして別れたのともう一度長門が呟いた。たぶんそれは、おれたちが人間だからじゃないかな。答えになっていない答えに長門はどんな表情を浮かべたのやら。なぜ、と小さな声に、おれはもう何も答えられなくて耳を塞いだ。てのひらから鼓動がひたすら、聞こえた。










20080808/絶望が拍動する





第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!