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※げろ注意





 古泉が吐いた。
 うええ、とかおぼろろろ、とかそういうアホな響きを伴って吐いたわけではない、ただ二人で部屋の中で普通に本を読んだりテレビを見たりしていただけなのだが、突然背中にぶつかってきた奴の背中がふるりと震え、次の瞬間にはもう奴の膝、腿、床に吐瀉物が広がっていたのだ。
 何故、と思う暇も無かった。豪快に吐いた古泉はふらふらと体を揺らせ、隣にあったベッドに体を預けて、ただ一言ごめんなさいと呟いただけ。意味が解らない。何故そこで謝るのか。とりあえず俺は持っていた本を机の上に放り投げ(勿論古泉の家にあった古泉の私物である)、台所に向かった。
 コップに水を入れ、風呂場に行って洗面器とタオルを数枚引っ張ってくる。濡らしたタオルと乾いたタオルどちらに致しますか、てなもんではないが、とりあえず濡れたタオルで古泉の口周りと胸元を拭ってやって、乾いたタオルを渡した。
 口の中に残滓が残っている可能性もあるので、水を飲ませて洗面器に吐かす。多少色の混じった透明な水がたらりと垂れて、古泉が軽く咳き込んだ。背中をさすってやる。肺あたりが痙攣するようにぴくりぴくりと震えているのを視界に収め、吐くならこっちに吐けよ、と言って洗面器も持たせた。
 右手にタオル左手に洗面器、あなたが落としたのはどれですか。言うまでも無く落としたのは俺ではなく古泉で、落ちたのは胃の中にあった消化物だ。つんと鼻をつくような匂いがして、なんだか奇妙な感覚を覚える。さすがに普段爽やかな匂いを体中から発している男でも、体内から出されたものまで匂いをコントロールすることはできないらしい。当たり前だ。もしこれで吐瀉物からフローラルの香りとかがしたら俺はもう古泉をまともに見られない。

「ズボンに染みこんでんな……。おい古泉、ズボン脱げるか、あとできれば上も、ていうか全部」

「脱げ……、ます」

 口の中に何かが残っているようなしかめつらをした古泉は、またもやふらふらと立ち上がった。ベッドの上に未使用のタオルとにごった水が張っている洗面器を置くと、ストリップを始める。そんなもんを見るよりゃ先に床の始末をしたほうが良いということを知っている俺は、即座に濡れたタオルで床を拭いた。ラッキーなことに古泉はフローリングの上でじっとしていたので、吐瀉物が広がったのもフローリングの上だけだ。これでもし敷物にまで染みていたらとんでもなく面倒なことになっていた。

「脱いだら、風呂場に行って水につけてこい。大雑把でいいから汚れ取って、水適当に絞って、洗濯機に入れる。解ったか」

「は、い」

 任せたものの古泉はやはりフラフラとおぼつかない足取りであったので、

「……やっぱり俺がやる」

 立ち上がって、古泉の腕の中から服を取っ払うと、ほぼ全裸状態の古泉をベッドに放り、休めと申し付けた。
 下着は無事なようだ。シンプルな色と模様のボクサーパンツ一丁で、傍から見ると間抜けなのだが、こいつがやると様になるのはいったいどういう仕組みなんだろうな。下着のCMに出られそうなルックスと体格、別に悔しいわけじゃないが面白くない。
 不機嫌な俺の顔を見てどんなことを思ったのかはわからないが、古泉は小さく「すみません」と謝罪した。だから、謝るなと。
 返事をせずに風呂場に向かい、洗面器が無いのでシャワーを直接服にかける。生地が傷まない程度に摺り合わせて汚れを取ると、些か乱暴に絞った。軽く水気を切り、洗濯機に放り込む。柔軟剤まで投入してさっさとスタートボタンを押した。
 ウィイイン、と鈍い音を立て始めたのを確認して、古泉の部屋へ戻る。相変わらずベッドの上で居心地悪そうに腹部を押さえて寝っ転がっていた古泉は、俺を見るなり申し訳無さそうに顔をくしゃりと歪めた。

「……すみません」

「………」

「……ごめんなさい」

「………」

 なんだこいつ、謝罪キャンペーンでもやってんのかよ。呆れて黙り込んだ俺をどう思ったのかは、何度も言うがわからない。だが、古泉は少なくとも俺が良い感情を持っていないと思ったらしく、その形の良い唇から無駄に謝罪を繰り返した。謝られるよりは礼を言われるほうがなんぼかマシだ。
 俺はベッドの上に丸まってなにやら壊れたテープレコーダーのように謝罪を続ける古泉一樹を見つめた。吐瀉物を吐くとこいつは何らかのスイッチでも入ってしまうような仕組みになっているんだろうか?

「……なんで吐いた」

 とりあえず、俺が今言いたいことは、吐くくらいに体調が悪かったのならばどうして俺に言わなかったのかということだ。すぐ後ろにいたんだぞ。一言、たった一言でもいい、気持ち悪いですとか、体調が優れませんとか、ちょっと寝てもいいですかとかでも、何でもいいから一言言やよかったんだ。なのに、吐くまで我慢しやがって。ふつふつと湧き上がる子供のような怒りを抑えきれず、俺は顔をくしゃりと歪めた。

「……ごめんなさい」

「俺は謝罪が聞きたいわけじゃない」

 ぴしゃりと切り捨てて古泉を睨みつける。睨みつけられた古泉はこどものように、俺と同じくくしゃりと顔を歪めたまま、再びごめんなさいと呟いた。もうその言葉はいらん。お腹いっぱいだ。

「謝れ、なんて、言ってないだろ。俺は。どうして、なんでそこまで、吐くまで我慢してたんだよ」

「……ごめんなさい」

「お前の耳は正常に機能しとるのか。おい、古泉一樹」

 大股で近寄って、古泉の胸元に手を寄せる。あいにく引き寄せられるような服がなかったので、左肩を掴んでがくがくと揺さぶった。まだ気持ち悪さが残っているのか、揺さぶられて眉がしかめられる。もういい、この際全部吐いちまえ。吐いたら楽になるぞと、どこかの警察ドラマの尋問シーンみたいなことを考えた。

「謝るなって、言ってんだ。謝罪はどうでもいいから、なんで吐いたのか、それを言えよ」

「っ………すみません」

 いっぺん殴っちゃろかこいつ。実は鼓膜が正常に動いてないとか、中枢神経がいかれてるんじゃないかとか、様々な可能性を考えてすぐ殴るのはやめたが、消化しきれない怒りが腹の中をぐるぐると回る。俺がこいつに怒って問い詰めても何も答えないのならば、何も聞かないほうがいいのか?それともこの謝罪のオンパレードは、聞くなという、古泉の無言のサインなのか?

「………」

 なんだか悲しくなって、肩から手を放した。悲しいつったって、泣きたいほどのようなものじゃない。ただ、こいつがかたくなに理由を言うのを拒む、それがなんだかいやで、俺が勝手に傷ついただけだ。
 だが、俺が手を放してついでに視線も剥がした瞬間、視界の端に映る古泉は、はっと息を吸い込んで俺にしがみついてきた。バランスを崩して倒れかけるところを、ぎりぎりで古泉がとどめる。
 こいつのしたいことの意味がわからなくて、無言を貫き通した。勝手に行動を起こしたのはあいつだ。だから俺が何かを言う必要はない。引き離すわけでもなく、抱き寄せるわけでもなく、ただ古泉にしがみつかれるままに立っている俺を見上げて、古泉が情けない声を出す。

「………吐いたのは、その、昨日、神人に吹き飛ばされたときに、腹部を強打したからだと思います」

「……それで?」

 そんな重大なことを、よくも今まで隠してくれたよ。こいつは。
 痣が残っているのかと思いきや、古泉はうまいこと腕でその部分を隠していて、今ようやくそれが視界に入った。そこまで派手というわけではないが、決して見過ごせないような大きさの痣が広がっている。胃が驚いていたのかそれとも昨日の衝撃が今頃来たのか、その可能性は低そうだがとにかく、その傷に気付いた俺は泣きそうな気持ちを堪えて、ばかやろう、と呟いた。

「なんでそんな、……早く言わないんだよ。そんなに俺は、頼りないかよ。そりゃ、専門医じゃないし、お前の胃がどうなってるとか、判断はできないが……、背中をさするくらいは、できるんだ。なんだよ、なんで言わないんだよ、どうして頼らないんだよ」

 ちくしょう、ばかにしやがって、と半ば涙声で告げると、古泉は目を見開いて、何を言うんです、僕は、と情けなく声を震わせて言う。それから俺の腰周りにすがり付いて、頭をぶんぶんと振った。どうでもいいがこの体勢はちときつい。

「違います、僕は、僕は……、今の今まで、傷のこととか、全部忘れていて」

 こんな怪我を平気で忘れられるって、お前の脳みそはどれだけチャランポランなんだよ。
 ず、と洟をすすってようやく気付いた。あ、俺泣いてる。情けないのは古泉じゃない、俺じゃないか。これっぽっちのことで泣くとかバカみてえ。すん、としゃくりあげて、無言で続きを促した。

「吐いた瞬間、突然、怖くなって。あんなところ、本当は、見せたくなかった。汚いものを、あなたに見せたくなかったし、その後始末をさせるなんて、もっとさせたくなかった。嫌われるんじゃないかと、思って、怖くなって」

「…………」

 洟をすすりながら引き続き考える。こいつ、ばかじゃないのか。ばかにも程がある。俺が、古泉一樹という一見完璧に見えるこの男が完璧ではないということを知っている俺が、今更、お前が吐いたシーンを見たくらいで、嫌うだと?なめられたもんだ、あるいは、軽く見られたもんだ。悲しみと同時にふつふつと怒りが上昇して、ほぼ止まりかけた涙を一気に拭うと、そのままその手を古泉の脳天に振り下ろす。
 いたい、と古泉が声を上げて、ついでに顔を上げた。情けないイケメンだが、情けなかろうと何だろうとイケメンに違いはないのだから世の中不平等だ。

「俺を見くびるな」

「え、」

「俺が、そのくらいでお前にドン引きするくらいのやわい神経なら、ハルヒについていったりなんかできるはずがない。さらに言うなら、そのくらいでお前を嫌いになるくらいなら」

 古泉の眉間に拳を押し当てて、

「最初からお前を好きになったりするもんか」

 古泉の目が見開かれた。

「第一、なんだよその乙女思考は。アイドルはトイレに行かないのよ世代じゃあるまいし、お前が吐いちまったのは人間である以上仕方のないことなんだ。それにな、俺だって、一応そういう恐怖は抱えてんだぞ。お前解ってんのか、お前が普段入れてるとこだってな、出すもん出すとこなんだよ、そんな汚いところに入れてるお前はもしかしたら内心俺のこと嫌ってるかも、とかそういう悩みを俺だって持ってるって、おい解ってんのか」

 ぐりぐりと眉間を指の関節でこねくり回すと、いたい、いたいですと古泉が声を上げる。それからそっとその手をとられて、真剣な目で見つめられた。

「……嫌ったり、するものですか。絶対に、嫌ったりしない。それに僕は、」

「あーいい、もう何も言うな」

 古泉が続けそうになった言葉を遮る。このまま自由に喋らせていたら、なんかこっぱずかしいことを言われそうな予感がした。俺の言葉に従って黙り込んだ古泉の、その頬に手を伸ばす。横に伸ばすと、肉の少ない頬がわずかながら伸びた。

「解ってるなら、いいんだよ。だから当然、俺の気持ちだって、」

 わかるだろ?と目で問いかけると、まぶしいものを見るように瞳を細めた古泉が、こくんと頷いた。

 このくらいで古泉を嫌うような、半端な人間じゃないと俺自身は思っているし、古泉にもそれは理解してもらえていると思っていた。それが崩されただけでも悲しい気にはなったが、ちゃんと理解してくれたんなら、もう構わん。
 次からは、吐きそうになったりだけじゃなくて、洟かみたくなったり、腹が鳴りそうになったり、トイレ行きたくなったりとか、そんなくだらないことでもいいから言えよと念を押すと、古泉がなんだか世話焼きな奥さんみたいですねえ、と頭の沸いた発言をしたので、それなりの力でもって古泉の頭を殴っておいた。










20080922/お嫌いですか?






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