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 彼の顔のパーツひとつひとつに噛み付いて、歯形を残していきたいな、と思う。

 例えば鼻、あるいは頬。一番目立つところと考えればその二つだろうか、多少露出した額でも構わないが、前髪でやや隠れてしまう恐れもあるし、平らなその部分には歯形が残し難い。彼の、男でも柔らかい頬や、突出した鼻であれば歯形を残すことは可能であろうけれど、残したら彼に相当怒られそうだ、と思う。いや、そうだ、じゃあないな。絶対に怒られる。その場合の怒りの成分は羞恥心と痛み、隠すことのできない傷に対しての不安というところだろうか。ただその場合の羞恥心は限りなく薄そうだ。
 もしも僕たちが周囲に認められた所謂恋人同士であって、学校でも通学路でも商店街でも街中でも、どこを歩いてもあああの二人、と温かな目で認められる存在であったとすれば、僕は何の躊躇いもなく彼の顔にこの歯を食い込ませて、彼が僕のものだと言う確たる証拠を見せ付けてやったのに。
 残念なことに僕たちは、少なくともこの日本という場所では温かい目で見られないような異端な恋人同士であり、公に手を繋いで歩くことも憚られるだけでなく、歯形をつけた状態で一緒に歩こうものならどんな喧嘩をしたのかと言うような生温い視線を受けるような、そんな関係なのだ。
 肌に吸い付いて痕を残すよりは、歯形のほうがより強烈に感じられる。と、勝手に僕は思っている。それだけではない、彼は所謂キスマークを残すと盛大に機嫌を損ねるのだ。冬場と夏場によってその程度は変わるが、どちらにせよ機嫌を回復させるまでになかなかの苦労を要する。夏場は蚊だと偽ることもできるし、冬場はタートルネックで誤魔化せば良いじゃないですかと必死に説得したものの、この痕は蚊のものとはちょっと違うし、学校じゃタートルネックは着れんだろ、と怒鳴られてしまった。ちなみに絆創膏で隠すという手段はもう使えない。なぜならば、涼宮さんがその絆創膏を剥がし、谷口氏がそれを見つけてからと言うものの首もとの絆創膏は異様なまでに注視されるようになったからである。
 確かに、そうだ。まあ、全面的に悪いのは僕であるのでその非は認めよう。けれど、仕方が無い。痕を残したいと思うほどに魅力的な彼が悪い。この人は僕の大切な人なんですと、少しくらい主張させてくれたっていいじゃないかと思う反面、彼との関係が公になるわけにはいかないと主張する理性もまだ残っていて、今のところは均衡が保たれているように思う。様々な意味で。
 ただ、彼に噛み付いて歯形を残したいと思う気持ちはその理性によってせき止められ、脳内の様々なところを濾されて、ただ噛み付きたいという欲求だけが僕に残った。だって可愛いんだ。食べてしまいたい。

「何を………」

 彼の声が鼓膜を震わせたので、僕はようやく思考の海から現実世界へ帰還し、はい、と短く返答をする。彼の視線は僕の顔に向けられていて、僕はそのほんの少し開かれた唇を凝視しないように、若干視線をずらした。

「……何を、考えとるんだ、お前は」

「……はい?」

 一拍遅れて聞き返す。彼はラグの上にちょこんと座って、胡散臭いものでも見るかのように瞳を細め、ゆらゆらと肩を揺らせた。

「さっきから、妙に悲しそうな顔になったり、思い出すように唸ったり、妙に安らかな笑顔浮かべたり、悩むみたいに眉寄せたり。百面相にも程があるぞ」

 あなたの言葉から抽出したら、正しくは四面相くらいですかね、という軽口はなんとか口の中に収め、僕は、そうですか?と問いかける。外野でBGM程度に鳴っているテレビが邪魔になるので切ろうかと思ったが、リモコンは彼の手元にあるのでやめた。
 彼は頷いて、ほんの少しだけ笑みを浮かべる。その笑顔は、僕の好きなそれだった。ほんわり、若干彼の妹さんを連想させるような、どこか幼くて優しい笑み。ほほえましいものを見るみたいな、笑顔。
 ああやっぱり、愛しいなあ、と思う。噛み付いて、本当に彼は僕のものなんですと、力いっぱい主張してやりたい。うずうずと湧き上がる欲求を堪えきれずに、頬に手を伸ばした。

「……なに…」

 すんだ、と続けそうになった唇を親指で押さえる。少し温かいのは、彼が先ほどまでコーヒー牛乳を飲んでいたからか。キスしたいなあと思ったけれど、合間のガラステーブルが邪魔で届かない。いや、上半身を乗り出せば、できる、かな。

「……キス、したいんですけど」

 バカ正直に主張すると、彼はきょとんと目を丸めた後、ばっ、と小さく声を出して、一気に頬を赤らめた。キスなんて、もう数えるのもばからしくなるくらいにしてるのに。それでもまだ彼は照れるんだ。かわいい。かわいい。
 勝手にすればいいだろ、と言われたら上半身を乗り出すつもりだったけれど、彼はおもむろに僕の手を外すと、立ち上がってこちらに歩いてきた。風呂上りの清潔な匂いが漂って、目を細める。僕の左横、膝のすぐ傍に腰を下ろして、黙り込む。していい、という合図だと受け取って、そっと腕を伸ばした。

「………っ」

 僕の前髪が触れた瞬間、くすぐったそうに彼が身をよじる。逃げそうになる腰をとらえて引っ張ると、いとも簡単に上半身が崩れてきた。それを支えて唇を引っ付け、何度か離したり引っ付けたりを繰り返す。肌の温度や唇の柔らかさを確かめる程度のそれで、胸がきゅうきゅうと締め付けられるような気持ちを覚える。

「……こっちに」

 軽く腕を広げると、顔面中に「不本意」と書かれた表情が僕を睨みつけ、それでも素直にやってくる。あぐらをかいた僕の足、その両腿に座り込むようにして座った彼の、後頭部が僕のすぐ目の前で留まった。
 後ろから抱きしめるというよりは、後ろから抱き上げる、という言葉のほうがしっくりくるこれを、僕は結構好きなのだけれど、彼は嫌がる。子ども扱いされているような気がして気に喰わん、と言っていたのを思い出し、一人で笑った。

「お嫌ですか?」

 ずるい問いかけだと解っていながら聞いてみると、僕を傷つけないように、か、あるいは本当に率直な感想を述べたのかはわからないが、「テレビがよく見える」と言って彼は僕にもたれかかってきた。確かに僕のいる位置からは、テレビがよく見える。彼が先ほどまでいた位置だと、少し体をひねらないと見えないから。

「それはよかった」

 呟いて、右手で彼の髪を撫でた。湯上りで乾かしたての、温度を持った髪の毛が掌に心地良い。好きだなあ、と思う。好きだなあ。好きだ。彼が、好きだなあ。ほんとうに。

 それからは、二人とも黙ってテレビを見た。特別面白いわけではないけれど、こうして彼と一緒に見ているだけで、非常に貴重な体験をしたと思える。僕は末期なのだろう。ちゃんと、解ってる。知ってる。
 彼を後ろから抱きかかえるようにしているため、彼は相当温かいに違いない。もたれかかって力を抜いている、その無防備な姿に、ついイタズラをしたくなって苦笑する。
 そのとき、ふいに彼の頭がカクンと傾いだ。僕の肩口にうずまっていた後頭部が、僕の首筋あたりに倒れて、そこに留まる。寝ているのだろうかと思ってそっと肩を押し、顔を覗きこむと、瞼が完全に下りていた。温かな温度につられて眠ってしまったんだろうなと思いつつベッドを見る。運ぼうか、と手に力を入れかけたところで、視線を戻してまず真っ先に目の前に入り込んだ、彼の項に目が留まった。

「………」

 襟足に隠れているものの、いつもよりは格別に大きく露出している項。滅多に日の光があたらかいそこは他の部位より色白く、透き通って血管まで見えそうだった。
 そろそろと彼の顔をまた覗きこむ。すやすや、安らかな表情が視界に映りこんで、妙に安心した。さっきまでなりをひそめていたはずのうずうずとした感情が、むくむくと再び湧き上がってくる。

(今なら、噛んでも)

 ひとつ思うと、もう止められなかった。今なら、噛んでも。だって、彼も寝ているし。ほんの少し、ほんの少しだ。歯を食い込ませるだけでも良い。その肌の味とか、柔らかさとか、匂いとかを感じられればそれで。だってきっと起きている彼なら、素直に噛ませてくれない。
 別に僕は吸血鬼というわけではないし、妙な噛み癖がついているわけでもなかった、けれど。湧き上がる欲求のままに、欲望に忠実に、僕は行動することにした。

 かぷ、と擬音のつきそうな恰好で歯を肌に沈ませる。おおよそ大多数の人間と同じであろう僕の前歯が、彼の項に浅く食い込んだ。彼の肌は柔らかく、湯上り独特の清潔な匂いと、彼本来の匂いが首筋から漂って、目が回りそうになる。噛んで、前歯の隙間から舌を突き出して肌を舐ると、じっとしていたはずの彼の肩が大げさに震えた。

「……っこいずみ!」

 目を覚ましたのだろう、怒声と共に彼の肘が僕のわき腹を狙って正確に打ち込まれる。たいした力ではなかったのでそのやわらかい力を受け止めると、彼はぐりんと振り返って、若干色に染まった顔でこちらを睨みつける。かわいくて、思わずしまりのない笑顔を浮かべると、彼の怒りにつりあがった眉がぎゅっと切なそうに歪んだ。

「……っなにして、ん、だよ」

 薄い歯形と唾液のついた項に手をやって、彼が小さく呟く。恥ずかしそうに細められた瞼にキスをした。起こしちゃいましたね、と謝ったが、彼は不機嫌そうに眉を寄せただけ。

「お前の謝るところは、そこじゃなかろうが」

 ごつんと側頭部を額にぶつけられ、一瞬視界が瞬いた。
 噛み付きたかったから噛み付いた、だから謝らない。などという自分本位なことを言うつもりはないが、彼だってそこまで怒っているようには思えないし、特別謝らなければならないという必要性も感じない。寧ろ今まで我慢した僕を褒めて欲しいくらいです、と心の中で呟いて、また項に唇を寄せた。
 ぷ、と音を立てて唇が肌に触れ、冷えた唾液が唇を濡らす。くすぐったさに肩を震わせた彼が、困ったように身じろぎした。

「ひっ…、や……だ、それ」

「あにがでふか」

 何がですか、と問いかけようとした僕の声は予想以上に間抜けな響きになって口から飛び出す。彼が、そこやだ、と言いながら僕の頭をぐいぐい押した。ただ、少しばかり僕の方が優位な位置にいるので、その力に負けぬよう体を前のめりに傾けさせて、より深く歯を食い込ませていく。

「くすぐったい……て」

 くすぐったいならここ絶対性感帯になりますよ、と言いたかったものの、今はそんな軽口を言うより噛み続けていたかったので、僕はくすりと喉で笑って、顎に力を入れたり抜いたりを数回繰り返した。
 ほんきでやめろ、と彼が舌足らずに呟いたので、怒られる前に、と口を離す。とろりと糸を引いた唾液はすぐちぎれて、彼の皮膚に落ちていった。

「あー、もー」

 呆れたように呻いた彼が、近場にあったティッシュを引っ張って首後ろを拭う。そこまでしなくても、と言いたくなるような執拗さで拭い終えて、勢い良く振り返った彼の顔は真っ赤だった。
 びし、と鼻先に突きつけられた指にも噛み付いてしまおうかと思ったけれど、さすがにそこまでやったら彼が本気で怒りかねない。今日一緒に寝てくれないかもしれない。それはいやだなあ、と思いながら衝動を抑え込む。彼が口を開いた。

「おっまえ、やるならやるで予告しろよ、本気でびびったろうが」

「だって、僕が今から噛み付きますなんて言ったら、あなた許してくれますか?」

「許さん」

「………」

 ほらやっぱり、と言わんばかりの目線を向けてみれば、彼が居心地悪そうに肩を震わせる。

「許さん、が、それでもお前は勝手にやるだろうから、俺は知らん。少なくとも、何も言わないでされるよりはずっとマシだ」

 まあ、彼がやめろと言っても、やめずにことに及んだ回数のほうが多いけれど。はあそうですか、と気の無い返事をして、首を傾ける。彼の言いたいことがはっきり理解できたわけではないが、とにかく、何かする前に言葉にすれば彼の怒りが減少するのだろう、ということはなんとなく察することができた。
 首の後ろ、項を、かゆみ成分でも塗布されたかのようにかりかりと掻く彼を見ていると、また何かをしかけたい衝動に駆られて困る。うごうごしている僕を見咎めた彼が、何だ、思ったことは口で言え、と呟いた。

「……また噛み付きたいです。許してくれますか?」

 彼は僕の言葉に目をきょとんと丸めて、それから僕の言った言葉を完璧に理解したらしく、はあ、と呆れた溜息を吐き出す。けれどそのあと、また僕の好きな笑顔を浮かべて、僕の肩にもたれかかってきた。そして、最高に甘ったるい一言を。

「許さん。ばーか」










20080922/かみたいかみたい






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