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ディモルフォセカ(仮)
01

「お先に失礼しまーす」
「おー、おつかれさん」
先輩の水谷さんが左手を挙げて返事をする。後は店内の確認をして終わりだからそれほど手間は掛からないはずだ。近くの百貨店で買った千円の腕時計をちらりと見ると、まだ二時半を回っていなかった。今日はいつもより少し早い。
着替えの時に外していた眼鏡を掛け直してから、タイムカードを押して店の外に出る。途端、肌を刺すような寒さが襲ってくる。店内は暖房がまだ効いていたから良かったが、やはりまだ正月を終えたばかりのこの時期は寒い。手袋をした両手を両ポケットに突っ込んで、首を引っ込めてマフラーの中に顔を埋める。マフラーから漏れた息が白い靄になって、直ぐ消えた。
普通なら布団の中で夢の中だろうが、この地域は別だ。むしろここらで働く奴らは、殆どが昼夜逆転の生活だろう。かくいう俺もその一人なわけで、コンビニで買った肉まんをもそもそと食べながら家に帰る。
肉まんと豚まんを食い終えて、野菜ジュースを飲み干す頃には家に着いた。なんだか高そうな車が停まっていた。どうせ一階の奴が、いつものように女に貢がせたのだろう。
ぼろい訳でもないが新しいわけでもないアパートの二階、一番奥の部屋の203号室に、「清水」の表札がある。そこが俺の家だ。出来るだけ音を立てないように家の鍵を回し、扉を開けようとする。
が、がちゃんと音を立ててそれは適わなかった。鍵を開けようとして、扉が閉まったと言う事は、つまりはそういうことだろう。眉間に皺が寄るのが分かった。この鍵の原因はわかっている。チビどもが寝る前にちゃんと戸締りをしなかったのだ。
(今度から、俺が家を出る時に鍵を閉めていくべきか…?)
けれどそれはなんだか監禁しているようで後味が悪い。だが何かあってからでは遅いのだし…。
うーんと唸りながら、とりあえず朝一番にあいつらを殴らなくてはと、今しがた閉めたばかりの鍵を開ける。
玄関を開けた瞬間、扉から漏れてきた明るさに、あの馬鹿たちが電気を消し忘れているのだと思った。げんこつはひとつでは足りないらしい。溜息を吐きながら中に体を滑り込ませる。滑り込ませて、あれ、と思った。スーツ姿の知らない男がにこやかな表情で玄関先に突っ立っていたからだ。
「…すみません、間違えました」
外に出る。表札を確認する。あれ、ちゃんと俺の名前だ。アパートの二階の一番奥の部屋。203号室。間違いない。俺の家だ。というかそもそも鍵が使えるのだから、間違いであるはずがない。ではどういうことだろう。
「和成様」
「うわ」
ぎ、と音を立てて開いた扉から、先程の男が顔を覗かせていた。というか今、この男、俺の名前を呼んだぞ。
「ここは正真正銘、和成様のご住居でございます」
「…なら、なんでアンタがいらっしゃるんですかね」
というかなんだその敬語。二十歳前後だろうその男は、その見た目通りの年齢なら俺よりも五つ以上年上と言う事になる。年上に敬語を使われるのはどうも慣れない。
だが今はそうも言ってられる状況ではないだろう。勝手に家に上がったなら不法侵入だ。立派な犯罪である。中におそらくチビたちが居るのだろうが、もしかして、強盗か何かだろうか。チビたちは無事だろうか。
もしもの場合は刺し違えてでも家から追い出そうと身構えていた俺に、スーツ男はにこりと愛想良く笑った。
「ご説明と、お迎えに参りました」
「説明?…迎えって、」
「薫様の申しつけで」
無意識に、米神が痙攣する。そう感じた瞬間には、反射的に声を発していた。
「出て行け」
「和成様」
「俺はあいつとは何の関係もない」
「ですが」
「出て行けと言ったぞ。三度はない。居座るなら警察を呼ぶからな」
ぶん殴って追い出しても良いが、時間が時間だ。あまり大きな音は出したくない。男はじっと俺を見つめてきたが、暫くして小さく溜息をついた。それから分かりましたと頷いて、扉を潜っていく。鼻先で閉めてやろうと思った。その直前。
「また来ます」
なんて、そんな不吉な事を言って去っていった。



それから、朝起きたチビどもを一発ずつ殴り正座させ、あれほど知らない人間を入れてはいけないと言っただろうと怒ると、チビどもは顔を見合わせて、でも、と大きな目で見上げてきた。
「お父さんの知り合いだって」
「お母さんの友達だって」
「兄ちゃんのゲボクだって」
…最後のは理解不能だが、どうやらあの男は言葉巧みにチビどもを騙して家に上がったようだ。
「そいつがなんて言おうが、お前たちは見た事無い人間だろう。お前たちが見たことも話した事もない人間は、家に上げちゃ駄目だ。というか、玄関を開けちゃ駄目だ。いいな」
「はーい」
返事だけはいつだって威勢が良い。まあ、これくらいにしてやるかと肩の力を抜く。両親の知り合いだと言われたら、馬鹿なこいつらならあっさり招いてしまっても仕方がない。母はともかく、父の記憶などこいつらにはないのだから。
昨日の夜、男が口にした薫というのは、遠い昔父と呼んでいた男の名前だ。八年前に母と俺を残して蒸発した。死んだと思っていた。けれどどうやら生きていたらしい。
今更関係のない話であるが。

飯を食わせてチビどもを家から追い出した頃には、八時を過ぎていた。小学校は八時半からだから、ぎりぎり間に合うか間に合わないかと言うところだろう。食器を洗って籠に入れ、昨日の夜チビたちが洗濯してくれた服を午前中の内にベランダに干す。
ベランダと言っても、窓に柵がついている、乗り出すのが精々の小さなベランダではあるが。
「あら、和成くん」
小さな長袖を物干しに引っ掛けていると、下からのんびりとした声が掛かった。知っている声だ。
「安藤さん」
おはようございます、と頭を軽く下げると、人のよさそうなやわらかい笑みで、「はい、おはようございます」と返される。65という年齢の割りに皺の少ない若々しいご婦人で、このアパートの管理人でもある。容姿どおりとても良い人で、母が亡くなってからも追い出さずにそのまま置いてくどころか、時々チビどもの面倒もみてくれる心優しい人だ。俺はこの人の事が結構好きだ。
だがあまり優しすぎるのも心配なのだ…特に一階に住まわせているホスト野郎なんか、今すぐ追い出してやりたいくらいなのである。普段は女の家を転々としていて滅多にここには帰ってこないが、たまにふらっと戻ってくる。俺はいつか、あの野郎が安藤さんに変な話を持ちかけるのではないかと気が気ではないのだ。今は若いから儲かっているかもしれないが、年を取ればホストなんてやっていけない。
俺はあいつがいつか勤務先から追い出されたら、ボコってでもここから追い出してやろうと思っている。
「一誠ちゃん達はもう小学校?」
「はい。…宿題もやらないで、あいつら何しに学校行ってんだか」
ふふ、と軽い笑い声。
「友達に会いに行っているのね。素敵なことだわ」
確かに、あいつらは宿題も勉強もできない馬鹿だが、学校をさぼったことは無い。寝坊以外で遅刻も殆どしないし、家にもきっかり五時まで帰ってこない。
友人ができる事は良いことだ。不自由をさせている分、毎日が楽しくあってほしい。
「…和成くん」
落ち着いた声が、少し重みを帯びて俺の名前を音にする。なんでしょうと見下ろす先に、安藤さんは、真剣な顔で俺を見上げていた。
「やっぱり学校に行く気はないの?」
…やさしい人だ。ほんとうに、やさしい人。
「一誠ちゃん達の面倒なら、私が見るわ」
「そんな、ご迷惑は」
「もう家族みたいなものよ。迷惑だなんて思わないでちょうだい」
「…ありがとうございます。でも、やっぱり、学校とバイトの両立は正直キツイですから」
夜中だけのバイトとはいえ、昼間寝ておかないとやはりどうしても体が言う事をきかなくなる。昨日も眠りについたのは四時過ぎで、チビどもの朝飯作りに六時に起きた。後片付けと洗濯と、買い物を済ませればもう昼は過ぎてしまうだろうし、それから寝てもチビどもが帰ってくる五時には起きていなければならない。飯を作って家を出てバイトをして、また真夜中に帰ってくる。学校に行っている暇が無いのだ。
中学を中退した俺に、安藤さんは親身になってまた学校に行った方が良いと勧めてくれた。お金なら出すわと言われて、さすがにそこまで厚かましくはなれないと断ったが。
(でもチビたちには、学校はちゃんと卒業して欲しいな)
あいつらは中学も公立に行くと言ってはいるが、行きたい学校があるならそこに行って欲しいし、高校も私立に行きたいのならそうしてほしい。お金の問題であいつらを縛るような真似だけはしたくない。そのためにも、俺なんかにかける金は最小限がいい。
安藤さんがすごく心配するから、一応通信で中学校は卒業しておいたけれど、どうやら卒業云々の話ではなかったようだ。この様子では、同じ年頃の子供と、他の子のように普通に、遊んでこいということなのだろう。
通信の高校一年過程がそろそろ終わりそうなのだが、これは意味が無かったのかもしれない。
どうすれば安心してくれるのだろうか。
「やだな安藤さん。俺これでも友達多いんですよ。安藤さんの前じゃ真面目ぶってるけど、やりたい事はいろいろやってるんですから」
「…そう?なら、いいのだけれど…」
まだ不安そうな顔で見上げてくる安藤さんに、どうしようと柄にもなく焦る。大丈夫なのだ、その気持ちを、どうやって伝えれば良いのだろう。どうやったら安心してくれるんだろう。
口ごもる俺の背後から、ぴんぽーんと間の抜けた音が聞こえる。誰かが来訪した事を告げる音だ。安藤さんにも聞こえたようで、「お客様?」と首をかしげている。
俺はそうみたいです、それじゃあ、と言ってベランダから頭を引っ込めた。逃げたと言われようが構わない。どうしたらいいか分からない。安藤さんは優しくて居心地の良い人だが、偶にとても、どうすればいいか分からなくなるのだ。
とにかくベストタイミングで訪問してくれた人物に感謝だ。新聞でも整腸飲料でも宗教でも、今なら笑顔で無駄話が出来る自信がある。
あった、けれど。
「おはようございます、和成様」
ばたん。
ぴんぽーん。
がちゃ。
「おはようございます、和成様」
「…何しに来た」
昨日のにこやかな笑顔と寸分違わないその男は、やはりスーツ姿で立っていた。
そして昨日と寸分違わない動作でのたまった。
「ご説明と、お迎えに」
昨日は真夜中だった事もあってか直ぐに帰ったが、今日はそのつもりはないようで、にこにこしながら玄関にするりと身を滑らせてくる。安藤さんもいるし、暴力で解決できそうもない。
俺は小さく溜息をついて、見知らぬ男を家に招いた。


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