月へ唄う運命の唄
月へ歌うアイの唄7
「先に入れ」
「へ?…わっ、と」
背中を押され、危うく食堂の扉にぶつかりそうになった。そんなにお腹が空いているのだろうか。マリアンの料理が楽しみなのはわかるけど…乱暴だなぁ、もう。
ちょっとだけ抗議の視線を寄越してやりながら、私は渋々扉を開けて食堂へと踏み込んだ。…が。
「あれ…真っ暗?」
中へと入ってみたものの、照明の類いは点いておらず、暗闇に包まれていた。
…いや、一ヶ所だけ、ゆらゆらと頼りなく揺れる灯りが点されている。
――それは蝋燭だった。
数にして七本、長いものが一本に、それよりも少しだけ短めなものが六本だ。そしてそれらは長テーブルの上に置かれた、燭台ではない何かに突き立っていた。
その台座と思われるものを注視してその正体に思い当たった瞬間、何故だか急に目の奥がどうしようもなく熱くなって、どんどんと視界が滲んでいく。
――それは、ケーキだった。
綺麗な円形のホールケーキが一つ、たっぷりの生クリームでデコレーションされてテーブルの中央に鎮座していた。
そのケーキに突き立つ蝋燭達の足元、立て掛けられるように添えられたチョコプレートには、普段呼ばれる名ではない、私の本名がこの世界の文字で書かれていた。
"Happy birthday,蒼羽"――と。
滲む視界の中でぎりぎり読むことの出来たその文字を認識した瞬間、一気に堤防が決壊した。
堪えていた気持ちも、目尻に溜めていた涙も。
「誕生日、おめで、…とう。…蒼羽」
背後からかかる声に、勢いよく振り返る。
瞬きで溜めた涙を落とした一瞬で見えた彼の顔は、いまだかつて見たことがないくらいに真っ赤になっていて、視線もどこか斜め上を向いていたけれど。
――私が一番欲しかった、"あの"優しい顔だった。これまで彼女にだけしか聞かせなかった、"あの"声音だった。
そんな声で呼ばれる真名の響きは、なんと甘美なことか。
思えば、彼は私の本名を殆んど呼んでくれた事がない。二人きりの時でさえ、本名を呼ぶのは専ら私の方だけで、彼は士名の方しか呼んでくれなかった。
本名を呼んでくれた事と言えば、私がアルバさんの小屋で目覚めた時など、彼が余程取り乱した時などの数回程度だ。……だから。
「……っ……ばかぁああああっっ!!」
「!?ばかっ!?」
思い切り飛び付いてやった。そのまま彼の胸に顔を埋めて涙を擦り付けてやる。
別に泣き顔を見られたのが恥ずかしい訳では、照れ隠しなんかでは、断じてない。こんなサプライズを仕掛けてくれた彼への、ささやかな意趣返しだ。
「ばか、バカ、馬鹿!ひきょうもの!」
「お……おい、落ち着けっ」
「いじわるっ、ぶきっちょ、ひねくれぼーず!」
「……おい」
「マリコン!ツンデレ!スイートボーイっ!!」
「意味がわからんっ!!」
「あ痛ぁっ!?」
ゴツン、と脳天に拳骨が落ちる。結構な力で落とされた雷に、つい今の今までとは別の要因で涙目になった。本気で痛い。
「文句は後で聞いてやる。…ほら、蝋燭の火を消せ」
「……、歌は?」
「僕にそこまで期待するな。仕切り直すならもう一度だけ言ってやる、……おめでとう、蒼羽」
「けち。あとやっぱり卑怯者……ふーっ」
ぶつぶつ言いながらも、彼の唇から紡がれる自身の名にニヤニヤが止まらない。落とされた拳骨がスイッチにでもなったかのように涙が止まったと思えば今度はこれかと、我ながら単純というかなんというか。
蝋燭の火を吹き消して照明を点け、用意されていたナイフと取り皿を手に取る。
『おめでとうございます、クノン。このケーキ、坊っちゃんが焼いたんですよ!!』
「そうなの!?」
驚きだ。重大な事実を暴露された事に憤慨して、シャルを床に叩きつけている辺り恐らく本当なんだろう。
『…ぉう…ガフっ、えぇ、マリアンに教わりながらそれはもう丁寧に慎重に…ぎゃんっ!?』
がすん、とエミリオのブーツの踵がコアクリスタルに直撃。あれが人間でいう顔に当たるとしたら、相当に痛そうだ。
『げふっ…、準備が終わるまで気付かれないようにマリアンに協力してもらったりと、クノンの喜ぶ顔を想像しながら一生懸命になる坊っちゃんはそれはもバ!ゲ!ゴブッ!!』
二度三度四度、とコアクリスタルに突き刺さる踵。あれだけ叩かれながらもめげずに、むしろ非常に嬉しそうに暴露し続ける彼はもしかしたらMなのかも知れない。
『ぼこぼこの癖に明らかに顔が"悦"んでるわね…気持ち悪い…』
嗚呼。そんな情報は知りたくなかった。
「ありがとう、エミリオ。凄く嬉しいし、ケーキ、美味しいよ」
切り分けて取り皿に乗せたケーキを口に放れば、ふんわりと柔らかな甘さがいっぱいに広がってゆく。そして広がるのはケーキの甘みだけじゃない、幸せな気持ちも、胸いっぱいに広がっていくのだ。
「ふ、フン、この僕が直々に腕を振るってやったんだ、当然だろう」
わざとらしく鼻を鳴らしてそっぽを向く彼。こういう時の彼は可愛らしくて、本当に愛しく思う。
『いやぁ坊っちゃんも流石に苦労し――――』
途中でシャルの声がフェードアウトしていったと思ったら、エミリオが食堂の窓を開けて外側を向きながら肩で息をしていた。
警告対象となる行動を重ね続けていたシャルはついに退場処分となったようだ。エミリオのマントが心なしか大きな赤い札に見える気がする。
「はぁっ、はぁっ…まったく、お喋りな奴め…!!」
「まぁまぁ、怒らないであげてよ」
一応宥めてみるが、残念な事にシャルは既に真っ暗な庭に消えた後だ。…………シャル、ごめんね。
「――それにしても、ちょっと意外。こんな、日付が変わった瞬間に…こんな嬉しいプレゼントをエミリオに貰えるなんて思わなかった」
というか、正直テンパってて自分の誕生日を忘れてしまっていた。
「ん?…あぁ、そう…だな。我ながららしくないとは思っている」
漸く落ち着いてきたらしいエミリオはこちらへと向き直ると、私の正面、テーブルを挟んだ向こう側の席に腰を降ろした。
取り分けておいたケーキを口に入れて、「まぁまぁか」と小さく自賛している。
「だが、僕はまだお前にプレゼントなど渡した覚えはないぞ」
「…え?」
どういうこと?
「らしくないついでだ…良かったら、受け取ってやってくれ」
そう言いながら彼は、懐から小さな箱を取り出した。綺麗にラッピングされたそれは、中央で赤いリボンが結ばれている。
「これは?」
「…見ればわかるだろう」
「う、うん…。開けてみても、良い?」
目で頷いた彼に促され、丁寧にラッピングをほどいていく。いよいよ小箱の外装が現れ、恐る恐るその蓋を開いてみた。
「――これ、――」
ゆび、わ?
少し洒落た小箱に収められていたのは、三日月の上に舞い降りる一枚の柔らかな羽根の彫刻があしらわれたリングだった。
その羽根と月には彩るように宝石が一種類ずつ嵌め込まれており、羽根は深い群青色に極小の金の斑点が夜空に浮かぶ星を思わせるラピスラズリ。月には、透き通るように深い色合いが高貴さを感じさせるアメジスト。
互いの宝石言葉を組み合わせると、指輪に込められた意味は――
"真実の愛を、永久に誓う"
「――――っ」
その意味に気付いた時、頭が真っ白になった。真っ白としか言い様がない程に、見事に真っ白だった。
「……頭の良いお前になら、きっと伝わるだろう。そう思って作ったつもりだ」
ううん、頭がいいとか悪いじゃなくて、これは雑学の類いだよ。
「信じられない、という顔をしているな」
うん、だって、あなたが見ているのは、違う女性(ひと)でしょ?
「だが、それが僕の真実だ」
嘘、うそだよ。だって、私の想いは一方的なもので――
「伝わりきらなかったなら、直接言おう。僕は――」
駄目っ!!
「待って!!!!」
ガタンっ!!と大きな音を立てて椅子から立ち上がる。勢い余って座っていた椅子が倒れた。正面で座っていたエミリオは目を丸くして驚いていたが、伝えるべき事は伝えなければいけない。
「――ごめん」
「…!?…」
驚愕に見開いた、その目が信じられないと叫んでいるように見えた。まるで予想もしていなかったと、明らかにショックを受けていた。
「…ごめん、エミリオ。今の私は、あなたの大切な想いを受けとる資格なんて、ない」
「…何、故、だ」
だって私は、明日…いや、日付的には今日。他の男性と出掛けなくてはならないからだ。なのにこのままこの贈り物と言葉を受け取ってしまっては、真剣な想いを踏みにじるような真似になってしまう。それだけはしてはならない。絶対にそれだけは許されない。
それをどうやって伝えようか言葉を選んでいると、やがて彼は顔を伏せ、俯いてしまった。心なしか震えているような気がする。常の彼からは想像がつかない程に弱々しく見えてしまう。
…やがて、俯いたままの彼がぽつりと呟いた。
「…あいつ、…か」
「え?」
「あいつと、ゼドと、出掛けるんだろう?今日。…だから、なのか?」
「なんで、それを!?」
エミリオには、ううん、誰にも言ってなかった筈なのに!!
「……」
私の問いに、彼は答えない。
失望させてしまっただろうか。嫌われてしまっただろうか。ちょっと誘われただけでほいほいついて行く尻の軽い女だと、軽蔑されてしまっただろうか。エミリオから離れなきゃいけない、想いを諦めなくてはいけない、そう想像するだけで胸が張り裂けそうな位に痛む程、あなたが好きなのに。
…それでも、これだけは伝えなきゃいけない。
「今の私には、あなたの想いを受けとる事は出来ない。…これを譲ったら、私は私を生涯許せなくなる。お願い、少しだけ時間が欲しい。今日一日だけでいい、あなたに正面からお返事が出来る私になるために、一日だけ時間が欲しい」
私はやっぱりどうあっても、エミリオへの想いを捨てきれない。それほどに愛してしまっている。
そんな私自身の愛に誠実であるためにも、きちんと決着をつけなければいけない。
それに多分、姫は結局私が"こう"である事がわかってたんだ。だからああやって、わざと曖昧な答えしかくれなかった。私が一時的に迷ったとしても、結局はブレないと信じてくれていた。その信頼にも応えたい。
その気持ちが伝わったのか伝わらなかったのか、エミリオはテーブルの上に置かれたままの小箱の蓋をそっと閉じて懐にしまった。
「……一日だけ、だからな」
それだけを残して、彼はその場から姿を消してしまった。
それから私は、灯していた照明を消して独りで泣いた。色々な気持ちがない混ぜになって、どんな想いで泣いたのかすらわからなかった。
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