ワープや汽車を使いハングは予定より少々早くヨーロッパへとやって来た。 あまり早く行っても迷惑だろうからと喫茶店に入り暇を潰した。 夜になり、ハングはメトロの家へと向かう。 レンガ造りの二階だての一軒家でガーデニングが趣味という奥さん自慢の庭には色とりどりの花が咲き乱れている。可愛らしい庭を通り抜けハングはベルを鳴らすと、しばらくしてガチャリとドアが開く。 出てきた人物はメトロの奥さんで、にこりと笑みを浮かべている。 「お久しぶりですね、ハングレイブさん。お待ちしていました。さぁ、どうぞ上がって」 「久しぶりですね。お邪魔します」 ハングは家の中へ上がり、二階にある客室へと案内された。荷物を置くと、夕食をご馳走になるために急いでリビングへと降りていく。 「よぉ、メトロ」 「ハング、わざわざ来てもらってすいませんね」 リビングではくつろいでいるメトロと五歳ぐらいだろう男の子がソファに座っている。 「あー、ハングおじちゃんだ。あそんでー! あそんでー!」 男の子はソファから降りると、ハングの元へと来てあそんでとせがみ始める。 「セロも元気だなぁ」 ハングはメトロの息子セロを抱き上げて、自分の肩に座らせる。 「元気すぎて困るぐらいですけどね」 「ふふ、男の子はこれぐらいが丁度良いのよ」 キッチンから良い匂いのする皿を持ちながら、メトロの妻がやってくる。メトロよりも背の高いハングに肩車をしてもらい、はしゃいでいる、息子を見てにこやかに笑う。 「セロ、もうそろそろ下りろよ。飯の時間だ」 ハングは肩からセロを下ろした。セロはブーブーというが、ハングは笑ってセロの頭をくしゃくしゃと撫でまわす。 「暫くここで世話になるんだ。また遊んでやる」 そう言えばセロは大人しく自分の席へとつく。ハングもメトロの隣に腰を降ろした。 夕食を終わらせ、セロを寝かせる為にメトロの妻が出て行く。リビングは男二人がワインを片手に昔話を始めていた。 「昔は毎日のようにお前と酒を飲んでいたのにな……。今じゃ妻子持ちの一家の主だもんな……」 大学時代は「結婚しなくてもいい」といっていたメトロが仲間内で最初に結婚した事に驚いたのはもう何年も前の話だ。 歳を取るほど時間の流れは早いというのは本当だな、とハングはしみじみ思った。 「ハングは結婚しないのですか? 家庭をもつというのもいいものですよ」 「そうだな……相手がいればするだろうな」 「もう、いい年なんですし。そろそろ真面目に相手を探してみては?」 「お前は俺のおふくろか……」 くっくっ、と笑いながら二人は楽しい酒の時間をすごす。日付が変わるまでメトロ家のリビングの明かりは消えなかった。 「……ガァー、グゥー……ガァー」 「ハングおじちゃーん! 朝だよーっ!」 「ぐはっ!」 ハングは突然振りかかった腹部への重みに目を覚ます。二日酔いの頭に響く甲高い子供の声。 「朝、アサッー! はやくおきてー!」 「だぁっ! わかったからだまれ。頭に響く」 ハングは起きあがるとセロの口に手を当てて、黙らせる。「んーんー」と騒ぐセロの頭を鷲掴みにして力を入れた。 「少し静かにしてくれるよなぁ……セロ?」 ニヤリと笑えばセロはコクコクと頷いた。それを見て、ハングは一息つきセロから手を離す。 ハングは着替えをし、一階のリビングへと降りていく。朝食を済ませると、さっそくメトロと一緒に遺跡へと向かった。 「へぇ……たしかにこれはアルタイルの技術だな」 ハングは地面に浮かび上がる魔方陣を見て呟いた。下級悪魔達が使う簡単な魔術の一つで、自分達のエリアをという証を示すものだが、だいぶ前のもので半分ほど掠れて消えかかっている。 「僕の専門外ですから、お願いできますか?」 「おー、任せとけ」 ろくに返事を返さず、ハングは鼻歌まじりで楽しそうに鞄の中から道具を取り出して調査を始めた。 そんな調査も一週間で終りを告げた。ハングはわかった事をレポートに纏め上げ、メトロへと渡す。 そして電話を借りて、時也へと明日の夜には帰ると伝えるとメトロ家の最後の夕食を楽しんだ。 翌日、ハングは朝食をご馳走になってから荷物を纏め始め。10時頃、メトロ家を出た。 「一週間世話になったな」 「こちらこそ、わざわざロシアから来ていただいて……もし何かあったらまたお願いしますね」 「気にすんなって、研究ができてこっちも有り難いしな」 「ハングのおじちゃんバイバーイ!」 「また、遊びに来てくださいね」 メトロ一家に見送られてハングはロシアへと帰るために駅へと向かう。大学生の時にはよく行ったヨーロッパの街も久しぶり来れば随分と変わり、時の流れを感じた。 商店街を歩いていると、ぶ〜んと羽音が聞こえる。耳障りのその音を発する物体がハングの目の前に来ると手でそれを潰した。 「虫?」 蚊かと思っていたがハングが見た事も無い虫で、くものような物に透き通った羽がついていた。潰したせいか、緑色の気味の悪い色の液体が手について、ハングは顔を歪めると、ポケットからハンカチを取りふき取った。 「何だ……これは」 ハングが考え込んだその時……ほど近い所から女性の悲鳴が聞こえてきた。 それらをきっかけに続々と悲鳴や叫び声が街中に木霊する。そして……ハングの前で人が倒れた。 「おい、どうした!?」 ハングは慌てて掛けより仰向けに差せて呼びかける。やせ細った男性であった。ハングに気付いて男性はうっすらと目を開いた。 「変な虫に刺されて……それから急に頭痛が……」 「虫?」 その単語にハングはピンと来た。男性は強く握っていた右手を力が抜けたように暖める。その中で瞑れていたのは羽根の生えた白いクモのような虫。 「医者を呼んで来る。すこし我慢してくれ」 コクンと頷いた男をゆっくりと寝かせると病院の方向を向いて、ハングは立ち止まった。 「おいおい……マジかぁ」 前方には異形の虫が大量に飛び交じっていた。その数はおよそ百は軽く超えている。 「はぁ、時也がいればよかったのにな……」 アイツなら転移魔術が使えるのに……。そう呟きながらハングは走り出した。 自然に飛んできたのかそれとも誰かがつれてきたのか……。 後者はとてもじゃないが考えられない。街一つという大規模な範囲で無差別な攻撃を食らわすほど、誰がやるだろう。 しかし、ハングは後者の可能性も考えなければならない。 『フフフ』 その声を聞いたからだ。 「誰だ!」 ハングは叫び辺りを見回す。けれど何処にも人影は見当たらない。 街の住人は建物の中へと逃げ込んだ。あるのは虫だけ。 『醜い……。本当に人間は虚弱で愚かで醜い生き物ね……』 男にしては高く、女にしては低い、美しい声が天から聞こえてくる。やがて声の主が姿を見せた。 ビルの三階ぐらいの高さの位置から街を見下ろしている。 「お前は……」 自分の声がその人物に届くとは思っていなかった。しかしその人物は恐ろしいほどの速さで落下してハングの目の前で止まった。 色の白い肌に怖いくらい紅い唇。エメラルドグリーンの瞳に、波を打つ髪は艶やかな蒼緑色。一見、女のように見えるが体格的には華奢な男のものだった。 風を纏い空中にとどまるその姿は人あらざる者であった。 男は緑色の瞳を笑わせてハングを見下ろし、細い指で前髪をかき挙げる。この男が虫をばら撒いた犯人だとハングは思った。こんな残酷な事をする人間などいるはずが無い。 できるのはアルタイルに住む……異形の者達だけだ。 「驚いた……まさか生き残りがいるとは思わなかったわ」 女口調の男は何が楽しいのかクスクスと笑う。 「何なんだお前は……」 「あら、わたくしの名前が知りたいの? おかしな人間ね。もうすぐ死ぬ者がそんなことを聞いても意味はないでしょうに……まぁ、いいわ。特別に教えてあげる」 男は女のような仕種で細い手を自分の胸へと当てる。 「わたくしは風乱の麗人【ふうらんのれいじん】サハラ。アルタイルの魔王であり、この地球を支配する新たな王となる者」 女顔の男……魔王サハラは高らかに自らの目的を宣言し、その力を持っている事を示す為に風を呼び出す。 「くそっ!」 強風により立つ事すら出来なくなったハングは、必死に足を地につきながらサハラを見た。そして、僅かに光を放つ彼の右手首にあるブレスレットにも気付いた。 「あの光は……もしかして……」 その存在に気付きはしたがハングがそのまま意識を保つ事は出来なかった。 「ほんと忌々しい誰がこんな醜い虫を放ったのかしら……まぁ、今はあの男を探さないといけないわね」 フフフとサハラは不適に笑うとハングを探す為に姿を消した。風に吹き飛ばされたハングを見て、サハラは彼が自分にとって邪魔な存在であると確信した。 サハラが最後に感じだあの気配は自分が持つものと全く同じものだった。 「生かしておいたら、いつか邪魔になるわね……。最高に美しい終りを与えてあげなくては……」 美しい顔でサハラは笑う。それは魔王らしい歪んだ微笑。 ACT.24 二人の、研究者 END |