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ベイグリーパラドックス*平穏の諦め方
けれど、中々手に入らないもの。
「ょ、よく、‥おぼえて、なぃ……」
はっきりしない五月女の返答に、それもそうだよな、と手螺はゆっくりと瞬く。
一応訊いてはみたものの、誰かの血を浴びたならともかく、同時に傷を負った人間の血を舐めてしまったかどうかなどわかるはずがない。
たとえ血の味を感じたとしても、自分も顔に怪我をしたのだから口内での出血だと思うだろうし、手螺がすぐに傷を治してしまったので口の中が切れたのかを確認する時間はなかっただろう。
というか、あの非日常極まりない事態でそんなことを気にする余裕があったとは思えない。
覚えていなくて当然だ。
(でも…仮に俺の血を舐めたとして……)
五月女の頬に触れたままの親指が、無意識に口許を撫でる。
「…っ!?」
(その程度の量で、ジンの姿が視えるようになるか…?)
手螺は普通の人間ではないし、その体に流れる血液も普通ではない。
普段はピアスにして身に着けたり飲み込んだりして効果を得ているが、血液そのものにも同等の効力がある。
けれど、誤って口に入った程度の量であれば怪我を治した時に消えているはずだし、万が一消えずに残っていたとしても、先ほど残滓を打ち消した時に完全になくなったはずだ。
手螺が何らかの効果を望んで与えたものではないのだから。
それなのに黒猫の体から引っ張り出したジンの姿が今も視えているのは、血液以外に何らかの理由があるからなのかと、手螺は五月女の双眸をじっと見つめる。
「…………」
「…、……っ、」
頬に体温が触れたままの至近距離で、ある意味熱い視線を送り続けられる五月女の肌は赤みを増す一方だが、そんな些細なことが手螺の意識に入るはずもなく、ただ時間だけが過ぎていく。
(――…もしかして、氏名に「五」の字と「みず」の音がある所為か‥‥?)
加護を与えていない、望んだわけじゃない、残滓も打ち消した。
その状況で精霊を認識出来るという一般人にはない能力を保持しているのなら、つまりそれは手螺側の要素ではなく、五月女側の要素に因るもの、ということではないだろうか。
推測でしかないが、文字通り手螺の力の影響を受けた―――いや、影響を"受けてしまえる"だけの要素が、五月女にはあったのだ。
勿論、≪一≫から≪十二≫までの数字を持って生まれてくる手螺たちのように、その身に「五」の字があるからといって、同室者やクラスメイト、友人として普通に生活していただけなら、手螺の異能の影響を受けることはない。
体調に関わる小さなことならともかく、身近で術式を行った程度で精霊を認識出来る程の変化が起こってしまうのなら、今頃日本は大混乱だし、恐らく手螺も日本へ来ようとは思わなかっただろう。
けれど、五月女は「五」と「みず」を持つだけでなかった。
(――あの、涙……)
老婆の怨霊を浄化した、あの日。
止め処なく零れ落ち、手螺のワイシャツに染み込んだ五月女の涙は、酷く清らかで、涼やかで、美しく、雑り気もなく……。
一点の穢れもないそれは、まさに『水』が好むものだったのではないだろうか。
(『水』に気に入られたってことか)
彼らは非常に気儘勝手な存在だ。
どんなに泣いて縋って懇願しても、願いを叶えてくれるわけではない。
そもそも万能ではないのだが、力の及ぶ範囲のことであっても、人間の為になにかをするということは殆どない。
相手が望んでいなくても気紛れに加護を授け、力を与え、ふとした瞬間に平然と全てを奪い取る。
その所為でたとえ一人の人間が死んでも、一つの町が滅んでも、彼らにとってはどうでもいい、取るに足らないことなのだから気にかけることもない。
手螺が高過ぎる親和性と強過ぎる好意の所為で梅雨の時季に体調を崩しやすくなるように、五月女も一方的に欲しくない力を与えられているのだろう。
黒猫と話しが出来たらいいのにな、と可愛い願いを胸に抱いていたのなら、手螺と違って迷惑極まりないと思うことはないのかもしれないが、先ほどの二人のやり取りから察するに、五月女がジンと話せるようになったことを喜ばしく思っている可能性は限りなくゼロである。
無論、彼らにとって与えられた側がどう思うかなど些末なことで、興味もない。
気に入ったからちょっと力をあげてみた――ただそれだけ。
効力がいつまで続くかは彼らにだってわからないのだ。
(けど、近い内に消えるだろうし……まあいいか)
どの程度の力を与えられたのか定かではないが、五月女本人に自覚がないのだから少しであることは間違いなく、放っておいても問題はないはずだ。
いずれにせよもう出来ることはない。
というか、いい加減、真剣に考えるのが嫌になってきた。
老婆の怨霊を浄化し、泥のように眠り続け、やっと回復したというのに。
ようやく厄介事から解放されたというのに。
何故、清々しい朝からこんなにも頭を使わなければならないのだ、やってられるかと、手螺はぐるぐる渦巻いていた思考を停止させ、二度瞬いた。
「……? 五月女?」
頬に触れたままだった両手を下ろし、そこで初めて目の前にある五月女の顔が真っ赤であることに気付く。
段々と色付いていった五月女の変化など全く気にしていなかった手螺には、先ほどまでは白かった頬が急激に赤くなったように思え、訝し気に呼んでみるが、反応は返ってこない。
綺麗な灰色をした目はしっかり開いているのに瞬きもせず、どこか一点だけをただ只管に見つめ、微動だにしない。
(意識がない…?)
まさか立ったまま気絶しているのかと、手螺は一歩離れて首を傾げる。
そしてふと、騒がしかったジンの気配が薄れていることに気付き、視線を落とした。
「…ジン?」
足元には、先刻中身を抜かれて倒れこんだ黒猫が、その時と変わらぬ体勢で転がっていた。
【「‥‥んぅ……ん‥?」】
「ジン、お前……体力の使い過ぎか? 大分薄くなってるぞ」
【「テラ…? え、なに…?」】
いつの間にか黒猫の中に戻っていたジンは四肢を投げ出したまま、しゃがみ込んだ手螺にとろんとした目を向ける。
精霊であるジンはもともと向こう側が透けて見える薄さで、黒猫と同化すれば殆ど視えないのだが、手螺でさえ微かにしかその姿を認められなくなっていた。
【「ん…テラ、あったかい…きもちぃ……」】
消えそうになっているからと言って術式に関係のないジンに治癒の呪文を唱えるわけにはいかないが、手螺が自身へ浄化を施すように、気の流れを整えて不快感を消してやることくらいは出来る。
手螺は鼻先から尻尾までをゆるやかに撫でてやった後、ジンを抱きかかえた。
「ジン、暫く休んでろ」
【「…んー? テラ、やすむ、‥の?」】
「俺じゃない、お前だ」
【「ボク…? なんで‥せっかく、テラが……」】
目を覚ましたのに。会えたのに。どうして。
瞼を下しつつも、手螺と離れるのは嫌だというジンを、灌木の陰にそっと横たえる。
「動けないだろ。消えたくなけりゃじっとしてろ」
本人は自分が今どのような状態なのかもよくわからず、どうして消えそうになっているのかもわかっていないのだろうが、恐らく五月女との諍いが原因だ。
生まれてからそれほど時間の経っていないジンは、下級どころか最下層の精霊で、その脆弱さは人間の嬰児と大差ない。
力を与えられた五月女が突如ジンを認識出来るようになり、部屋から摘み出されたり追い払われたり、言い争ったりしたことが負担になったのだろう。
手螺以外の人間とは殆ど関わりを持たず、一方的な接触しかしてこなかったのだから、当然と言えば当然だ。
【「…テ‥ラ……」】
「寝てろ。すぐに良くなる」
一撫でして立ち上がった手螺は僅かに躊躇った後、ジンの肩先に悪いものを遠ざけるピアスを置き、五月女を放置したまま昇降口へと向かった。
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