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ベイグリーパラドックス*平穏の諦め方
けれど、中々手に入らないもの。


「お前が感謝する相手は北見先生だろう」

 確かに手螺は五月女に憑いていた老婆の怨霊を祓った。

 「祓った」というのは正確な表現ではないが、五月女を老婆の闇から解放したのは事実だ。

 それを否定するつもりはない。

 しかし、手螺は五月女本人が抱えていた問題には一切関与していない。

 五月女を本来の姿に戻したのは北見だ。

「俺じゃない」

 五月女は自分の心に頑丈な錠前をつけ、その中で小さな身体を丸め、独り震えていた。

 手螺はそれをわかっていながらそこまで付き合う義理はないと、あの場で全てを北見に押し付けたのだ。

 最初から五月女と北見が二人で向き合うべき問題だったのだから、第三者である手螺が押し付けるも何もないのだろうけれど、どうしても後ろを向いてしまいそうになる五月女の複雑な胸中は、ただ真っ直ぐ進もうとしていた北見には自ら察することが出来るものではなかっただろう。

 それこそ、北見が五月女としっかり話し合うことで知るべきことだったのかもしれない。

 手螺が北見に教える必要はなく、若しかしたら教えなくてよかったのかもしれない。

 だが、いずれにせよ、錠前に鍵を差し込んで扉を開け、膝を抱えていた五月女の細い手を掴んで救ったのは、北見なのだ。

 むしろ知っていることを言わなかった時点で、手螺は五月女を見捨てていたとも言える。

 北見の人間性を信じたわけではなく、また疑ったわけでもないが、自分の安眠を確保出来れば五月女の心がどうなろうがどうでもよかった。

(―――あの時、五月女が死のうとすることはもうないと思った。けど、俺は放棄した)

 手螺は捨て置いたのだ。

 マイナスになる可能性がゼロじゃないと知っていて。

「お前がお前でいられるのはあの人のお蔭だ。教師のくせに無茶ばかりしてたあの人にだけ感謝しておけ」

 どういう反応をしたらいいのかわからないという困惑の色が強く滲む五月女の瞳を見つめながらそう言うと、今度こそ手螺は自室へと入って行った。

 クローゼットの中からワイシャツを取り出して羽織り、ベッドに乱暴に腰を落とすとフェイスタオルを頭に被る。

 五月女が自ら関わろうとしてきたのは、屋上でのことを都合よく解釈しているからだろうと想像がついた。

 恐らく五月女は、初めて見た手螺の慈悲深い微笑みと、繊細な割れ物を扱うかのように伸ばされた手の優しさが忘れられないのだろう。

 いや、普段の対応が冷淡な分、インパクトが強すぎて頭から離れないのかもしれない。

 だが、五月女があの時の手螺にどんな感情を抱こうと、あれは演技でしかないのだ。

 怨霊が術式の方法を知っているとは到底思えなかったけれど、成功する可能性が低かった為に念には念を入れ、少しでも悟られることのないよう、自然な動作で五月女に近付いて涙に触れた――ただ、それだけのこと。

「気づけよ………お前だって北見先生を騙してただろ」

 怨霊を油断させる為とは気付けなくても、自分だって己を偽り身近な人間を騙してきたのだから、心の伴わない演技くらい見破れるだろうと手螺は天井を仰ぐ。

 だが、あまり間をおかずに次元が違うのか、と短い自嘲が零れた。

 五月女――…一般人と自分とでは演技の次元も種類も違う。

 見破れという方が無理な話だ。

(劇団を作ろうって冗談半分に言ったのは誰だったかな……)

 一瞬脳裏を過ぎった光景に先程とは違う笑みを浮かべるものの、すぐに表情を無にした手螺は首を反らせたまま目を閉じる。

「《右の血赤(ケッカ);左の空青(クウセイ)――旅人は廻(メグ)る輪の理に舞い降りた》」

 理由も交えて説明しなければ、いつまでも五月女は間違った認識を持ち続けるだろう。

 だが、五月女にあれが演技だったことを伝える必要はないと、手螺は冷静に判断を下す。

 いつかは告げなければならないのだろうけれど、今はその時ではないのだ。

 黙っていた方が好都合なことが多い。

「《なにものにも侵されず、なにものにも縛られず。ただ主(キミ)の為にこの血を捧ぐ》」

 手螺は他人の為に動かない。己の利益を考える。

 だから自分のことを誰がどう思おうが、関係ない。

 見られる夢があるのなら、勝手に見ていればいい。

 そして、それらが全て虚像に過ぎないのだと知った時―――…

(勝手に幻滅すればいいさ)

「《珠化(ジュカ)》」

 歯で傷つけた右の親指から血が玉になって溢れ出し、それを二滴、左の掌に落とす。

 皮膚に触れた瞬間、色を失って透明になった二つのピアスを、手螺は手馴れた動作で両耳につけた。

(まあ、北見先生と両思いの五月女には関係のない話か)

 胸中で呟いてから「両思い」という言葉は自分には縁のないものだなと、誰も聞いていないのに似合わないと溢し、手螺はベッドから立ち上がる。

「さて、………問題は制服だな」

 第三から一番下までのボタンをかい、再びクローゼットを開けてみるも、そこには勿論ブレザーがない。

 先週まで使っていたものは恐らく処置をした坂本が持っているのだろうが、クリーニングに出しても着られないことは誰の目にも明らかだったし、まさか制服で術式を行うはめになるとは思っていなかったので、予備など買っていないのだ。

 何度見ても白いワイシャツしかない光景に溜め息が落ちる。

「‥ネクタイもない……」

(――連絡しなきゃならないのか? ……俺から…?)

 手螺が憮然たる表情で扉を閉めた時、その音に重なるように控え目なノックが響いた。

「手螺チー?」

「‥何だ」

「あの、…制服、届いてるんだけど」

「――――」

 思い掛けない五月女の発言に一瞬停止する。

「直行の職員室の机の上に、手螺チーに渡してくれっていう手紙と一緒に置いてあったって……」

 混迷状態に突入しようとしていた脳は五月女から与えられた情報によって正常に戻され、クローゼットから離れた手螺はドアを開けた。

 突然ガチャリと音をたてて開いた目の前のドアに五月女は少し驚いたようだったが、手に持っている大きめの白い箱を差し出してくる。

「相手の名前がどこにも無くて、直行が聞いてまわってるんだけど…誰も知らないみたいなんだ」

「必要ない」

 未だに贈り主がわかっていないのだと、形のいい眉をハの字にする五月女に、けれど贈られた本人は酷くあっさりと受け取ってしまう。

 まるで当然だと言わんばかりの、どこか冷めている表情に五月女は驚いて問いかけた。

「え、手螺チー、相手が誰だかわかってるの?」

「…一応な」

 適当に短い返事をしつつ、独特の空気音をたてて箱を開け、中身を確認する。

 ブレザーにスラックス、そしてネクタイ。

 自分から連絡せずに済んで良かったと、手螺は静かに胸を撫で下ろした。

「でも、直接届けないなんて…怪しくない? わざわざ直行の机に置いて……」

「そういうもんなんだ」

「そういうもん?」

「基本的にあっちからは俺に接触しない」

「…どういう意味?」

「カンシュとシュウジン」

「え……、え?」

「簡単に言えばそういうことだ」

 しきりに瞬きをする五月女は言葉の意味を理解出来ていないようだったが、我ながら的確な表現だと手螺は独り頷いてドアを閉めた。

「………観衆と衆人‥??」





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