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夜はまだ明けない
清志理安学園シリーズ


 屋根代わりの分厚いアクリル板。美しい曲線を描くそれは丁寧な職人のお陰か見事な透明度で、真っ青な空や周りの景色を全く損なっていない。視力さえ良ければ花壇の花の色すら見分けられるだろう。
 初めて屋上のドアを開けた時、霖音はさすが清志理安学園、と感心した。
 風や植物の匂いを感じられないのは残念だが、外気に触れないということは声があまり漏れないということを示す。ひと気のない広い空間。気儘に歌を歌うには、最高のロケーションだった。
 柵の一メートルほど手前で立ち止まってドアに向き直り、目を閉じる。腹式呼吸。横隔膜。鼻腔。殊更意識せずとも歌うように音を出そうとすればそれらは自然と反応し、身体そのものが楽器になる。

「Ave Maria, gratia plena,
 Dominus tecum,
 benedicta tu in mulieribus
 et bene dictus fructus ventris tui Jesus!」

 歌う際、声は『出す』ものではない。『出される』ものだ。
 横隔膜を使わずに出した声、意図して出した声は所謂のど声であり、歌謡曲程度の歌であれば問題ないが、歌い続ければ少なからず掠れてしまう。喉を酷使するのだから当たり前だ。
 しかし喉に頼らず、横隔膜を上下に動かすことで肺から息を送り出せば、声帯が震え、極自然に、自然な声で歌うことが出来る。遥か遠くまではっきりと響かせることも。

「Sancta Maria,
 sancta Maria, Maria,
 ora pro nobis,
 nobis peccatoribus
 nunc et in hora,
 in hora mortis nostrae.
 Amen.」

 変声を終えた青年の声とは思えないソプラノの旋律が、透明なアクリル板の中に閉じ込められた空気を震わせる。ここから出せ、解放しろ、と言わんばかりに、深く、鋭く、伸びやかに。何かを振り払うような強さが肌を撫でて行く。
 自分の耳では自分の声を正確に把握出来ない為、独り善がりの声を出してしまわないようにプロの歌手は自分では練習しない。声を出す時には必ずボイストレーナーがいる。
 しかし、プロでもなければ音楽科の生徒でもない霖音には何の関係もないことだ。どれだけ外れていても揺れていても、独り善がりでも構わない。歌いたいから歌う。自分の欲求を満たす為だけの行為には聴き手など最初から存在しないのだ。誰かに聴かせる為の歌、何かに捧げる為の歌でないのなら、満足するのは自分一人でいい。
 歌い終えた霖音は静かに瞼を押し上げ、ドアの前に立つ後輩を見つめた。
「ここは練習室じゃないぞ」
「知ってます」
 最初からいることがわかっていたのか、それとも関わるつもりがないから驚く必要もないという気持ちの表れか。音を立てずに屋上へ出た三鬼(ミキ)は少しも驚いた顔を見せない霖音に不愉快そうな顔を向けた。数歩足を進め、距離を縮める。
「あんたが屋上に行くのが見えたから追って来たんですよ」
「盗み聞きよりも発声練習の方が有意義だろ。清志理安学園唯一のカウンターテナー」
 身体のエネルギーではなくバランスで歌う霖音の発声法はベルカント唱法と呼ばれているが、誰かに教わったわけでも、独学で勉強したわけでもなかった。強いて言うならば、我流。いつの間にか身に着いていたのだ。中学に上がるまで通っていたピアノ教室ではソルフェージュも一緒に習っていたが、単なる教養や趣味で通っていた子供のレッスン内容になんとか唱法などという小難しいものが含まれていたとは到底思えないし、元々歌が巧かった霖音は声の出し方よりも聴音能力を鍛えられた。
 ベルカント唱法という言葉を聞いたのも、自分の発声法がそう呼ばれることを知ったのも、つい最近のことである。そしてそれを霖音に告げたのは、目の前にいる三鬼だった。
「俺は堂々と立ってましたよ。見える場所にいたのに目を使わなかったのはあんたです」
「俺が歌う時に目を閉じるって知ってたからだろ。堂々と、って言うならドアの開閉も堂々と音をたててやれ」
「自分の感覚を基準にしないで下さい。俺は何でも丁寧に扱うように躾けられてるんです」
 その『何でも』に『先輩』は含まれないのか。
 打てば響くような返事、と言えば聞こえはいいかもしれないけれど、意地でも言い負かされてなるものかという態度を見せられてもちっとも嬉しくない。俺のことなんかほっといて自分の練習に専念しろよ、と口にしても無駄なことを喉の奥で呟きながら下を向く。三鬼はわかりましたなんて口が裂けても言わないだろう。
「蜷川(ニナガワ)先輩」
 苛立ち、焦り、不安、切望。顔を上げなくても声色で何を言われるのかはわかりきっていた。
「何度言えばわかるんですか。あんたは清志理安学園どころか、日本で唯一の高校生ソプラニスタだ」
「お前こそ、何度言えばわかるんだ。それはプロやプロのソプラニスタになろうと日々励んでいる人に相応しい呼称であって、本格的に学ぼうという気持ちのない奴に第三者が勝手につけるものじゃない」
「往生際が悪いんじゃないですか」
「往生際? ‥むしろ良かっただろ。一回も合わせてないのにやるって言ったんだから」
「松久先輩の代理を務めたことじゃありません。頭寝てるんですか」
「………」
 可愛くない。学科も部活も違う、学年が一つ下というだけの後輩に可愛さなんか求めていないが、少しは遠慮を学べと霖音は思う。誤魔化されてくれても罰は当たらないだろうに。
「何で音楽科に入らなかったのか理解できません。あんたは普通科にいるべきじゃない。音楽科に、」
「三鬼。もう少しペースを落とせ」
 わざと遮った霖音に、闇を溶かし込んだような双眸が不快気に歪む。
「生き急いでもいいことなんか何もない。子供でいられるのは今だけだ」
「だから背中を向けて逃げ続けてもいいって言うんですか」
「人聞き悪いこと言うな。誰が逃亡犯だ」
「あんたですよ」
 臆することなく断言した三鬼から視線を外し、スラックスのポケットに手を突っ込む。ここまではっきり言われるとそうなのかもしれないと思うが、思うだけで認めはしない。
 両親の笑顔。生気のない色。着信を告げる携帯電話。レッスン室。ピアノを見ただけで苦しくなる呼吸。触れようとすれば震えた腕。逃げていたのは前の話だ。今はもう、向き合えている。目を逸らしてなどいない。
「俺はコンクール初日に逃げることをやめたばかりだ」
「ピアノの話なんかしてません。思考回路狂ってるんじゃないですか」
「狂ってるのはお前の方だ。コンクールのメンバーに普通科の生徒が選ばれたのは初めてじゃないらしいけど、コンクールのメンバーに選ばれる程の音楽科の生徒が普通科の生徒に転科しろって言うなんて、前代未聞じゃないのか?」
「それは音楽科が設立された頃のことです。大昔の話と比べないで下さい。音楽科が有名になってからは普通科の出場者なんていません」
「だから、勧誘するなら佐輝にしとけ。俺は伴奏しただけだ。選ばれたわけじゃない」
「俺はバイオリン専攻じゃありません。それにあんたも選ばれたでしょう。代理の伴奏者が二セレから出るように求められるなんて、それこそ前代未聞ですよ。残念ながら出場辞退者は過去にもいたらしいですけど」
 口ではそう言いつつも、三鬼には残念そうな気配など微塵もない。霖音は嘆息し、ポケットから引っ張り出した右手を小さく振った。
「お前が接着剤みたいにしつこいのはよくわかったから、そろそろ練習に行け。先生を待たせるもんじゃない」
 これで出て行かないなら霖音が先に屋上から出て行くつもりだったが、三鬼はほっそりとした手首にある腕時計で時刻を確認すると、音もなく身体を反転させ、ドアノブに手をかけた。
「逃げてないって言い張るなら、さっさとそこから前に進んで下さいよ」
 親の躾けの賜物なのか、それとも自分の発言を意識してなのか。トロくて悪いな、という言葉は静かに閉められたドアにぶつかって空気に溶けた。
 真っ青な空を見上げて呟く。
「朝を迎える準備は出来たけど、夜はまだ明けないんだ」
 太陽がなければ、朝にはならない。





※作中歌曲「アヴェ・マリア」
 作曲「Johann Sebastian Bach/Charles Francios Gounod」
 歌詞「ラテン語」




FIN * CHAP





あきゅろす。
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