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後日談*美香ママ+調音編


 あれから一ヶ月と二日が経った日、おれは久しぶりに美香ママのオカマバーへと足を運んでいた。
 兄貴の知り合いのアオさんに依頼された仕事をやっていて時間が作れなかった為、約二ヶ月ぶりの来店になる。

 肴は勿論おれとヨージのことで、今日までの経緯を掻い摘んで話すと美香ママはメイクばっちりの目をあの時のように大きくした。

「それで結局、縒りを戻しちゃったの?」
「縒りを戻したんじゃなくて、もう一度付き合い始めたの」
「同じことでしょう?」
「違うよ。縒りを戻すことは、ドからファを弾いたら一旦手を止めて改めてソからドを弾くこと。もう一度付き合うことは、ドからファを弾いたところで潔く最初に戻って、今度はドからドまでを続けて弾くこと」
「…ノリちゃん、わかるようでいてわからないわよ、その喩え」

 何で?、と首を傾げると、美香ママは苦笑した。
 おれはこれ以上ないくらい的確な表現だと思うんだけどな。

「でもノリちゃん、本当によかったの?」
「んー、何が?」
「ヨージくんとまた付き合うことよ。口では絶対に浮気しないって言ってても、実際はどうだかわからないじゃない? それにノリちゃんにした話だって、作り話かもしれないでしょう?」

 美香ママはグラスを磨きながら心配そうに眉根を寄せる。
 おれは今年二十五になる男で、合気道の心得があって、割と淡泊な性格で。
 恋愛や酒やギャンブルに溺れる要素なんて一つも持っていないのに、それを知っている美香ママはどうしてこんなに心配するんだろう。
 梅酒サワー以外の酒で酔うと退行して幼児化することも知っているからか?
 …それは関係ないか。

「ヨージはそんなに器用じゃないよ」
「浮気相手に教えてもらったのかもしれないわよ? 大体、ヨージくんって年上としか付き合ったことがない上にサイクルが早いんでしょう? 女の人と最後までセックスしたことがないなんて変じゃないの」
「…何で怒ってるんだ?」
「別に怒っちゃいないわよ」

 いや、怒ってるようにしか見えないんだけど。
 そういう台詞はきゅっと上がった眉と目尻を下げてから言った方がいいと思う。

「確かにヨージは年上としか付き合ったことがないけど、中学時代はイかされてただけで、高校時代はその反動か何なのか、逆にイかせてただけなんだって」
「………」
「初めて最後までセックスしたのは浪人時代。予備校でバイトしてた男子大学生に誘われてホテルで抱いたって言ってたかな」
「…ノリちゃんは、ヨージくんの話しを全部信じてるの?」
「信じてるよ」

 美香ママの言うことは至極尤もで、口にはしなかったけれど、リタも美香ママと同じような表情で聞いていた。

 傍から見ればおれはころっと騙された馬鹿な男なのかもしれない。
 定年のない職に就き、二十代前半で財産を持ち、容姿は優れている方に分類され、家柄には文句のつけようもない――自分で言うのも何だが、手放すには惜しいと思うような人間だ。

 でも、性に目覚めたばかりの中学時代に酸いも甘いも噛み分けたOLに遊ぶようにしてイかされていたなら、逞しく成長する高校時代に少年の自分をいいように扱っていた年上の女性を弄びたくなる気持ちはわかるし、女性との恋愛に積極的になれない心境も理解出来る。
 実際、扇情的な服装の女性が視界に入った時のヨージの顔は、普段の言動からは想像もつかないくらいに冷たい。
 普通の大学生なら凄いと興奮したり露骨だと馬鹿にしたりするだろうに、ヨージは氷を埋め込んだような目をする。
 だから話を聞いて納得した。
 そういう過去があったから、らしくもない反応を見せていたんだ、と。

 勿論、これだけではヨージの話を真実だと断定することは出来ない。
 カノジョと最後までヤらなかったという証拠もない。

 だけど、

「誰かに太鼓判を捺されなくても、物的証拠が何一つなくても。おれは信じられるよ」
「、‥ノリちゃん、」
「ヨージは馬鹿で阿呆で餓鬼で我侭で、たまにどうしようもないと思うことも確かにあるけど。おれと違って素直な奴だから。美香ママが思ってるほどいい加減な男じゃないよ」
「……あんたって子は、ドライと見せかけて実は意外とウェットなのね」
「何で? おれ、物凄くドライだよ」

 ヨージにもしょっちゅう「酷い!」って言われるし、ウェットな人間だったらこんな展開にはなってないだろう。

「本当にドライだったら一度嫌いになった男とやり直そうなんて思わないわよ」
「‥、…………」
「…何よ?」
「美香ママのどこがヨージと似てるんだろうかと思って」

 生まれ育った環境、家族構成、部活動、学歴、生活習慣、趣味…。
 思いつく事項を並べてみても、今一つぴんとこない。

「は? 何言ってるのよ、ノリちゃん。あたしとヨージくんなんて違うところだらけじゃないの」
「だって、ヨージと同じ勘違いをしてるから」
「勘違い?」
「おれ、ヨージを嫌いになったなんて一言も言ってないよ」
「………………」

 そりゃあ嫌いなところが一つもないとは言わないけれど、我慢出来ないような面があれば半同棲なんて絶対にしないし、そもそも付き合おうとすら思わない。
 別れた理由は前にも言ったように、恋人であるおれよりも浮気相手を優先させたからだ。
 ヨージを嫌いになったからじゃない。
 大体、浮気を許している――恋人本人に宣言したことはないが――おれが浮気を理由に相手を嫌いになるのはおかしいだろう。
 浮気される→その事実に傷つく→嫌いになる…なんて乙女的思考も持ち合わせていないというのに。

 グラスの中の氷をカラカラと回しながらふと視線を上げると、美香ママが表現し辛い面持ちでおれを見下ろしていた。

「美香ママ、綺麗な顔が凄いことになってるよ」
「―――…、ノリちゃんの不思議っ子ぶりを嘗めてたわ」
「? でもおれ、今まで嫌いになって別れた相手なんていないけど」
「じゃあ何がどうなったら別れようって思うのよ??」
「恋人に対して『好き』とも『嫌い』とも思わなくなったら。ただの通行人みたいに何も感じないなら、付き合ってても意味がないだろ?」
「、…そりゃそうだけど。二十四歳の台詞とは思えないわね」
「正真正銘、二十四歳男性の台詞です。…でもヨージの前に付き合ってた奴とだけは、お互いの為にならないと思って別れたよ」
「‥何かあったの?」

 普通なら「ふぅん」って言って流すか、「どうして?」とか「何で?」って訊くところだと思うんだけどな。
 バーの店主をしているだけあって、こいうことにはやっぱり鋭いのかもしれない。

「相手が留学を考えてピリピリしてる時に、ちょっと背筋が凍るような体験をしてね。お互いに気を遣うことが出来なくてすれ違うことが多くなったから、このまま一緒にいたらダメになると思ったんだ」
「…そう……」
「あれ、どんな体験か訊かないの?」
「簡単に教えられることなら最初から具体的に言ってるでしょ」
「流石美香ママ」

 恐れ入ります。
 座ったまま頭を下げると、美香ママはおれの髪をわしゃわしゃと掻き混ぜた。

「誘拐されても泣き声一つ上げなかったノリちゃんが背筋を凍らせたんだから、訊かなくてもよっぽど嫌なことだったんだってわかるわよ」
「‥、だからあの誘拐には恐怖する要素がなかったんだってば」

 小学一年生の夏休み。
 祖父母も両親も音楽家という音楽一家の『九重(ココノエ)家』に生まれたおれは、営利誘拐に遭った。
 だが、結婚資金欲しさにおれを攫った派遣社員の男はぺドフォビア――小児性愛者嫌悪ではなく子供恐怖症の方だ――だったらしく、おれの方が監禁している気分だった。
 冷房のきいた部屋の隅で毛布に包まるおれが身動ぎする度にびくつく程だったのによく子供を攫えたなと、今でも思う。
 結局恋人の犯行に気づいた彼女が警察に通報しておれは三日後に掠り傷一つ負うことなく解放されたわけだが、一日三食与えられてトイレに行くのも自由だったあの状況に命の危険を感じることはなかったし、正直に言えば自分を閉じ込めている男に恐怖する余裕は少しもなかった。
 何故なら、両親主催のピアノ発表会前日に攫われたからである。

「警察官は頻りに強い子だとか立派だとか言ってたけど、おれは監禁されてることより発表会を中止させたことの方が何億倍も恐ろしかったよ」
「実際に誘拐されてそんな風に感じるなんて、ノリちゃんくらいなもんよ」
「美香ママはあの二人の厳しさを知らないからそんなことが言えるんだよ。おれが足の骨を折ってもステージから落ちて気を失っても倒れて入院しても、心配の『し』の字すら見せなかったって言っただろ?」

 愛されていないと感じたことはなかったけれど、心配されていると感じたこともなかった。
 それに発表会は多くの生徒とその父母が参加するものだ。
 突然中止ということになれば大勢に迷惑がかかると小学生でもわかる。
 息子が誘拐されたことに関しては二人はただの親だが、発表会を中止することに関しては主催者でなければならない。
 経営者としての両親を知っていたおれは弱冠六歳で胃に穴が開くかもしれないと思った。

「でもまあ…そういう経験があったとは言え、身代金を要求されても両親が心配することはないって本気で思ってたんだから、子供の思い込みは恐ろしいなって思うよ」
「あたしは『三つ子の魂百まで』って言うのは本当なんだなって心底思うわよ」

 美香ママは呆れとも感心ともつかない口調で言った。
 三つ子の魂百まで、というのはおれも本当だと思う。
 あれから二十年近く経った今でも泣かれることに弱く、涙が苦手だからだ。
 心療内科を受診すれば誘拐・監禁という体験から心的外傷後ストレス障害と診断されるのかもしれないが、それは駆けつけた両親が別人のように泣いた原因であっておれが涙に弱い原因ではないし、日常生活に支障を来たしているわけでもないから治療しようと思ったことはない。

「筋金入りでも珍しいのに、金剛入りの不思議っ子なんて世界中探してもノリちゃんだけなんじゃないかしら」
「‥鉄が金剛になっても嬉しくないし、芸術家の殆どは不思議な人だよ」
「何言ってるの。ノリちゃんと芸術家じゃ全然タイプが違うでしょ」
「‥美香ママは何が何でもおれを唯一の不思議っ子にしたいんだね」
「したいんじゃなくて、事実そうなのよ」
「……美香ママにも『三つ子の魂百まで』が当てはまるんじゃないかな」

 ただの客にそう言い切る頑固さはちょっとやそっとじゃ身につかないと思う。
 怒りそうだから口に出したりしないけど。

「ノリちゃん。オカマの世界って言うのはね、鋭い洞察力がないと生き残れないのよ」
「…でも美香ママは単なるオカマバーの店主じゃなくて『美香ママ』っていう独立した存在だと思うし、素で綺麗だから大丈夫でしょ? おれ、美香ママの梅酒サワーが飲めなくなるのは嫌だよ」
「、……ノリちゃん、自分が何言ってるかわかってる?」
「んー、多分。脈絡のないこと言った? ちょっと酔ったかも」

 空になったグラスを置き、カウンターに頭を伏せる。
 目を閉じて暫くそうしていると、微酔いの鼓膜が不意に落ちてきた美香ママの声を拾った気がした。


「不思議っ子の頭には無意識に口説くっていう言葉がないのかしらね…。少しだけ同情するわ、ヨージくん」





FIN * CHAP


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