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 救急箱は洗面所の吊戸棚に仕舞い、洗面器はお風呂場に置く。

 湯船が空になっていてホースが濡れているから、リタは残り湯を使って洗濯してくれたんだろう。
 本当に尊敬すべき友人だ。
 結婚して家庭を持ったら理想のお父さんになるに違いない。


「後で洗うのは面倒くさいもんな…」

 洗面台に水を溜めて汚れたタオルを洗っていると、開けっ放しのドアからヨージが顔を出した。

「ノリト」
「ん?」
「浮気してごめん。嘘ついてごめん」
「―――……」
「俺、ノリトに嫌われたと思ったんだ」
「…?」

 ヨージの言っていることがわからず、手を止める。
 今回のことで「嫌われた」という結論を出すならわかるが、「嫌われたと思った」って、どういうことだ?

「ノリトが携帯で写真撮られるの嫌いだって知ってたのに、携帯買い替えた日にしつこく撮ろうとしたから、だから、」
「ヨージ。そのことは怒ってないって言っただろう」
「でもノリト、その後態度が変だった! …だから俺、嫌われたと思ったんだ」
「…ちょっと待て。それが浮気の理由だとでも言うつもりか?」
「違うっ、けど。違くない、かも」

 不明瞭な言い方をしてヨージは目線を下げる。
 自分から告白してくるならもう少し頭の中で整理してからにしろと言いたいところだが、自分だけでは処理しきれなかったからこうしておれに話しているんだろう。

「俺、こんなに人を好きになったのは、ノリトが初めてなんだ。だからノリトに振られたら、女とは付き合っても、絶対に男とは付き合わない」
「まだ二十一なんだからわからないだろう。物凄く可愛くて優しい、魅力的な男の子に告白されたらどうするんだ?」
「そんな奴要らない! 俺はもうノリト以外の男なんか抱かない。抱きたくない。…でも俺、女と最後までセックスしたことないから」
「……カノジョと最後までヤって女とのセックスに慣れておきたかった、か‥?」

 思わず呆れた声を出すと、ヨージは怒りと哀しみを混ぜ合わせたような顔をした。

「だって、ノリトは女ともヤれるんだろ!? 女と付き合ってた時は抱いてたんだろ!? だったら俺と別れても困ることなんか何もねぇじゃん! 俺はノリトに振られたら男なんか見たくねぇって思うし、一生頭のどっかにノリトがいるし、女と最後までヤったことねぇから次の相手なんか見つかりそうもねぇのに!」
「ヨージ、」
「ノリトに『別れよう』って言われてもショックなんか受けない自分になりたかったんだよ!! オンナがいるから大丈夫だって! 俺には別の相手がいるからノリトに振られたって大丈夫なんだって安心したかったんだ!!」
「…………」

 嫌いになったなんて一言も言ってないのに、どうしておれに振られることを前提に行動するんだ、と思う。
 でも、泣きそうな顔をしているヨージに何と言ったらいいのかわからない。

 正直、おれは今困惑している。

 ヨージのことを浮気性だと思ったことは一度もないが、どちらかと言えば浮気をするタイプだと思っていた。
 浮気についても一回や二回なら普通じゃないのか?、というような考え方をしているんだろう、と。

 ヨージは人気者だ。
 男からも女からも好かれ、年下でも年上でも同年代でも、殆どの人間がヨージに好意を抱く。
 何でも完璧にこなすロボットのような優等生ではない為、妬まれることはあっても嫌われることはあまりない。

 そういう環境で育ってきたヨージだから、おれに対する執着があるとは夢にも思っていなかった。

 過去の恋人たちには全て自分から別れを告げたと聞いていたから、おれに振られてプライドが傷つくことはあっても、心が傷つくことはないと思っていた。

「…アイツとは、結局最後までヤってない。そういう雰囲気になった時にノリトの着信音が鳴って、ノリトが真夜中にメールするなんて珍しいから、開けてみたら、別れるって…っ」
「…………」
「俺、頭が真っ白になって、俺とヤる気のオンナが目の前にいるのに、ノリトに振られてもいいように浮気してたのに、件名見た瞬間息が止まって、自業自得なのに耐えられないって思ってっ、」
「ヨージ、落ち着きなさい。過呼吸になる」
「‥っ…、…」

 ヨージの頬に手を添え、下がっていた目線を上げさせる。
 二つの黒い瞳におれの姿が映ると、ヨージは顔を歪めて抱きついてきた。

「――――っ、チャンスを下さい」
「え‥」
「もう絶対、ノリトの嫌がることなんてしないから。俺にチャンスを下さい!」
「チャンスって…」
「祐司を好きでもいいから、浮気を許して欲しいなんて言わないから、俺にもう一度だけノリトの恋人になるチャンスを下さいっ!」
「………」

 ユージを好きだと言った覚えは一度もないのに、ヨージはいつまで勘違いを続ける気だろうか。
 それに恋人になるチャンスが欲しいと言っておきながら、他の人間を好きでもいいだとか浮気を許さなくてもいいだなんて、矛盾している。
 まあ、ヨージらしいと言えばヨージらしいけどな。
 ……ほんと、敵わない。

「ノリト、」
「一ヶ月後の今日もまだおれを好きだったら、考えてもいい」
「っ、ほんと!?」
「ああ。但し、電話もメールも会いに来るのも無しだけどな。それでもいいのか?」
「いい! いいに決まってんじゃん! 一ヶ月くらい我慢出来るし!」

 さっきまでの真面目な顔はどこへやら、ヨージはぱあっと嬉しそうな笑みを浮かべる。
 『考えてもいい』という言葉の意味が『付き合ってもいい』だと気づいたのかも知れない。
 自分でも何様だと思うが、おれだって傷つかなかったわけじゃないんだから、これくらいの傲慢さは許されるだろ?

「ヨージ、寝室で好きな服に着替えてきなさい。収納具は変わってないから一人で探せるよな?」
「え…、…」
「‥どうして頬を赤くしているのかは知らないが、ピザ屋の派手な制服で電車に乗りたいのか?」
「、着替えてきますっ」

 訝しげに問うと、ヨージは赤い顔のまま慌てたように洗面所を出て行った。
 …照れる要素なんてあったか??


「アンタ、今でもまだ陽司が好きなんだろ」

 タオルを洗い終えてリビングに戻ったおれを出迎えたのは、ユージのそんな言葉だった。
 対面式のキッチンに入り、グラスを手に取る。

「何か飲むか?」
「誤魔化さないではっきり言えよ」
「日本語というものは繊細で複雑なものなんだよ」
「何だよそれ」
「ユージ、ごめんな」
「――…っ、」

 唐突な謝罪に、カウンターのスツールに腰掛けているユージが一瞬、息を呑む。
 目を逸らさずにいると、キッと睨まれた。

「好きなら簡単に別れてんじゃねえよっ、意味わかんねえ!」
「わからない方がいいこともある」
「馬鹿にすんな!」
「馬鹿にしてるわけじゃない。おれのような汚い大人になる必要はないと言ってるんだ」
「…っ‥、…」

 好きという気持ちだけでは関係を続けることは出来ない、なんて。
 感情的になるユージやヨージにはきっと理解出来ない。
 わからない方が幸せだ。

「……アンタ、マジでムカつく。何なんだよ、クソ…」
「ユージ、これからもヨージと仲良くしろよ」
「はぁ!? これからも何も仲良くなんかねえよっ! ふざけんな!!」
「はいはい」
「! マジムカつくっ!!!」


 ユージもヨージも子供っぽい。
 三歳しか違わないのに、おれやリタに比べて随分とお子様だ。
 すぐ感情的になるし、咄嗟に嘘をつくことが出来ないし、さらりと交わす狡賢さに欠けているし、あまり考えずに思ったことを口にするし、体裁が悪くても言いたいことを言うし…。
 数え上げたらきりがない。

 でもきっと、子供でいられることは周囲より早く大人になることよりもずっとずっと尊いことなんだろう。

 自分の中で感情を押し殺して、咄嗟の嘘にも抜かりが無くて、狡賢く相手を交わして、損得を考えて発言して、常に他人の目に映る自分を意識する――。
 そんな生き方は美しくもなければ面白くもなく、何かに心を動かされて涙するということもない。


 だ か ら お れ は 、


 リタの作ってくれた朝食にパンとスープを足してブランチをとり、帰り道で喧嘩しないようにと念を押して二人を送り出したおれは、プリペイド携帯片手にベランダへ出た。
 二つの小さな影を見つけてから頭の中にある十一桁の数字を入力する。

『―――…もしもし?』
「出るのが遅いぞ」
『っ、え、えっ、ノリト!?? これ、今の携帯っ??』
「ヨージ、言い忘れたことがあるから言っておく」
『‥、…一ヶ月後の約束を取り消すとかじゃないよね?』
「さあ、どうだろうな。一回しか言わないからよく聞けよ」
『何…?』

 ヨージの怯えたような声が耳元に届く。
 足を止めている小さな影を見つめながら、おれは久しぶりに感情のまま笑った。


「好きだよ」


 き み が す き 。





FIN * CHAP




あきゅろす。
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