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あきあかねのむこう 平穏篇



何時もとは違う平穏────



あきあかねのこう 平穏篇




綿流しの夜。
やはり今年もまた起きた。
今年の犠牲者は引っ越してから間もないまだ幼い少女の両親。
母親の死体は家一階のリビングにあるソファーの上で発見されたが、父親の方は未だ見付かっていない。
逃走した、とも考えられる。

しかし、現場の一階に流れていた血液からは到底母親一人では足りない量だ。
それに加えて少女には血が流れる程の外傷は見当たっていない。
鑑識からは混じり合った血液で個々の正確な血液型を特定する事は不可能に近いと言われた。
が、あの床一面の血は父親の物も含まれているのだろう。
爪先まで血に染まった少女、苗字名前…彼女の姿が脳裏に甦る。

綿流しの夜、私は何とも嫌な予感がして古手神社の周りを歩いていた。
途中で最近引っ越して来た前原圭一に支えられ、何者か…多分犯人であろう人物に襲われそうになっていた彼女を見付けたのだ。
その時着ていた最初は白くて綺麗だったであろう赤いワンピース。
それに父親の血液がべったり検出された。
一体、何があったのだろうか。
直接本人に聞けば分かる話なのだが、彼女は…


「お父さんとお母さんは、何処?」


記憶を、無くしていた。
事件当時起こった事は勿論、それに関する事全てを忘れていたのだ。
人間は精神的ダメージが余りにも大き過ぎると自身を守る為、その事項に関する全てを忘れてしまう事があると言う。
確かにまだ年も幼い少女には両親の死は重過ぎるかも知れない。

あんな生々しい死体を。
親を己の目の前で殺されたのであれば尚更、だ。
これで…良かったのかも知れない。
少女が壊れずに済んだのだから。

明かりは無かった為襲った犯人の顔は見えなかったが、投げ飛ばした感触からすると余り大柄ではない人物だと言うのは分かる。
何とかしてこの子の両親を殺した犯人を…おやっさんの敵を見付けなければ。
来年は定年退職を迎えてしまう身だ。
これが、最後のチャンス。


「大石さん」


私を呼ぶ声。
振り向けば其処には彼女。
前原さんと一緒に犯人に襲われていた途中、気を失った彼女は直ぐに病院へ運ばれた。
眠っている間に母親の死亡が確認され、父親は行方不明。
一人になってしまった彼女の引き取り手を探そうと両親の親族関係を調べてみても何も掴めない。


「はい、何ですか?」
「夜ご飯出来ましたけどどうします?」


だから、私が引き取る事にした。
ドアから顔を出している彼女の後ろからは部屋に入り込む風から少し香ばしい香りがする。
窓に目を遣ると空ももう藍が出始めていた。
気が付かない内にもうそんな時間になっていた様だ。

先程まで読んでいた机の上に散らばる資料と書類を分かり易く整える。
それから私はドアの方に振り返り微笑む。


「では早速頂きましょうか。名前さん、今日の献立は何ですかな?」
「鶏の唐揚げです、頑張りましたよ!」


零れる笑顔。
嗚呼、こんなにも幼いのに…
その姿を見てずきりと胸が痛んだ。
初めに会った時の彼女は人との関わりを拒んでいる風に見え。
同時に、聡いとも取れた。
何かを達観した様な、そんな。

子供は子供。
そう括れば終わるのかも知れない。
だが少なからずも彼女は彼女なりの論理を持っている。
崩れる事のないそれを。
親の…両親の行方に触れまいと。
記憶を辿らまいとする、決心を。
今だって前を歩く小さな背中は不釣り合いな業と、戒めの鎖を背負っている。
唯一人で。


「何ですか?」


貫く視線を感じたのか振り返る背中。
見上げる頭を撫でれば、繕いの笑顔が浮かぶ。
痛々しい姿に私は何も言えなく、笑顔を返した。

私がこの子に出来る事。
金銭的な面もあるが、自由に。
少しでもその小さな肩が、軽くなる様に。
安らぎを…平穏を、与えられる様に。
守ろう、この子を。
何があっても、絶対に。




虫の鳴き声。
時計の針は既に十一時を過ぎており、昼間の蒸し暑さが嘘の様に涼やかな風が窓から入る。
私は机に顔を向かわせ、書類を読み返していた。
点けている卓上の電気スタンドの光のみを頼りに、要所要所を写していく。
虫の声が薄く聞こえる部屋にカリカリと紙へ記す音が流れる。

…とても静かだ。
そんな中、微かに苦しそうな声。
耳を澄ますとそれは襖の奥から聞こえていた。


「名前さん?」


襖の奥。
其処は布団を敷き。
彼女が寝ている筈の部屋だ。
机から立ち上がり、音を起てない様ゆっくりと襖に手を掛ける。
横に引くと薄暗い中で何かがせわしなく動いていた。
それと、苦しむ声。


「ぁ…あ、ああ゙…っ」


盛り上がる影。
目が慣れると中の様子が見える。
薄い掛け布団を両手で強く握った彼女が背中を反らせ、右往左往に悶えていた。

異様な光景。
しばしの間ぼんやりとそれを見ていたが呻く声で我を取り戻す。
襖を完全に開け、駆け寄る。
苦悶の表情を浮かべる顔は異常な程の汗を流していて。
抱いた小さな肩までもが汗でじっとりと濡れていた。


「名前さん!大丈夫ですか?!しっかりして下さい!」
「や、だ…私…まだ…っ!」
「名前さん!」


肩を揺さ振る。
虚ろに薄く開いていた瞼。
カクカクと開閉し、それがまるで人形の様で生気を感じない。
心臓が早く脈打っていたのがそれよりも更に激しく打ち出した。
蟀谷(こめかみ)に汗が流れる。


「お、いし…さん?」
「ええ、私です…大丈夫ですか?」


手を握り返す。
気持ちが伝わったのか目を覚ました。
がしかし目は未だ虚ろで焦点が合っていない。
怖い夢を見たに違いない。
息も荒く、頬には幾筋もの水跡が残っている。
手の内の小さな手は夏でありながらも冷たく、震えていて。
どうしようもなく、離れたくないと心が叫んだ。


「眠るまで、此処に居ますから」


だから、安心して下さい。
手の内にある小さく細い手を握り締める。

『ありがとう』

弱々しく発せられた言葉は、深い闇の奥へと消えていく。
背中を伝う悪寒は拭えないまま。
嫌な闇が潜む静寂と共に夜が明ける。
嗚呼…怖い、恐ろしい。
どうか、この穏やかな日々が失われません様。
そう祈りを捧げる様に目を閉じた。


短期間ながらも

平穏な日々が、崩れていく────





080413



あきゅろす。
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