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夕焼けカンランシャ<後/静臨>
 



先程から雰囲気がいつもと違う臨也に静雄は眉根を寄せ、何か言おうかとした瞬間、臨也の顔がすっと無表情になる。正確にはどこか幼く、遠い感慨に耽るその表情は今までの臨也では考えられないほど美しかった。何処かでそんな臨也に衝撃を受けていると気付いた静雄より先に、こちらを向かない臨也がひとり言のように呟き始める。

「日常って、シズちゃんはどういうものだと思う?」

まるで窓の外の風景に語りかけているようだった。いや、違う。窓に映る自分に語りかけているのだとも思えるのだ。真っ直ぐ臨也の瞳が捉えている夕日は霞んでいた。静雄は、答えてやらなければ臨也が壊れるのだと直感した。

「…俺でいえば、朝起きて、仕事して、帰って寝る。たまにトムさんが飯奢ってくれて、…うぜぇが、お前を見つけて殺そうとするのも、俺にとっては日常だ。」

最後の静雄の言葉に今度は臨也が少しびっくりしたのか目を見開いた。しかしすぐに視線は夕日に戻され、静雄が同じ空間にいる事実があやふやになりそうなほど臨也の雰囲気が曖昧になる。

「安堵できる日常、人を惰弱させるのにこの上ない環境だ。メビウスの輪の様に人間は日常を繰り返し、それ故に非日常を求める人間も多い。日常をつまらないという人間は人間を愛していないんだろうね。日常を謳歌できるなんて、人間の特権だというのに。」
「何が言いてぇんだよ。」
「…非日常の中にいる人間ほど、日常を妬み、羨み、渇望する。例えばこの遊園地という場所は、日常を泳ぐ人間が非日常として楽しむ為に用意された仮幻想だ。それこそが強く日常の存在を人間に刻みつけるというのに。だからね、人間が作り上げた非日常という幻想さえも、日常になってしまうんだよ。」
「だから何が、」
「だから、非日常を過ごす人間には、この仮幻想はとても苦しい。日常を見せつけられて辛くなる。非日常へ追いやられ日常を捨てざる得なかった人間も、自ら日常を捨て去り非日常へ堕ちた人間も、人間である限り日常を幻想せずにはいられない。そう、安堵できる日常を捨て去っても、羨望だけは捨て去れないのさ、いつまでも、いつまでも、まるで過去の様に、ずっと付いて回る。なら俺は、」

黙れ、そう言いたかった。しかしその言葉が静雄の喉に引っかかったのは、夕焼けに照らされた臨也の顔があまりに儚かったからだ。

「お前、」
「ごめんね、らしくない、聞き流してくれ。」

最後の本音を呑み込む。臨也は夕日にぼやけた本音を日常に押し込め、そして今の非日常に自分を立たせる。雰囲気がいつもの黒々しいものへと変わった。しかし静雄は、その矛盾を逃さない。
こいつだけはおかしい、おかしいんだ、他の奴らにはわからない様だが、俺だけはどうしてもこいつ自身が見えてしまう。嫌いだが、良い意味でも悪い意味でも俺がこいつを一番理解してしまっているのだ。
静雄はサングラスを外した。

「お前は何が言いてぇのかって、聞いてんだろ。」

鋭い瞳が臨也の本音を刺す。結局のところまだお前の本音を聞いていないという事を、無言で静雄は言い放ったのだ。臨也が顔を引き攣らせた後、張り詰めていた糸を必死で繋ぎ止めようと意識の中で葛藤する。

言うな、言えない、言うべきでない。それは痛いほど解っている。俺は本音を殺している。その事実も痛いほど解っている。けれどそれを誰にも悟られてはならない。そうならないように俺は人を嘲笑し愛しているのではないか。ましてや目の前の相手は犬猿の仲であるシズちゃんだ。理解できずに嫌悪する、愛すべき人間でさえない相手だ。永遠に相容れない、俺と似た者同士で、俺と真逆の相手。
だから、だめだよ俺、そんなに、泣きそうになるな。

「やめてよ、シズちゃんのそういう所嫌いだ。全部嫌いだけどさ。」

臨也は静雄を見てしまわない様に、変わらず夕日を睨んだ。なのに夕日は変わらず美しくて、自分という意図を糸で繋ぎ止めている臨也を優しく揺らす。
今シズちゃんの方を見てしまうと、泣いてしまう。そんなあり得ない不安に、自分の中で人間と対になるほどの存在となってしまっている静雄が疎ましくなる。日常からも非日常からも切り離された空間、時、共にしているのは人間じゃないシズちゃん。また、目の前がぼやける。

「俺も手前が嫌いだよ。」

いいかな、いいだろう、俺。

「…ひとり言だから。」
「あぁ、聞いてねぇよ。」

俺は常に非日常を泳いでいる。
俺は常に日常を観覧している。

「日常に、俺は入れない。シズちゃんやサイモン、あの妹達でさえ日常の中にいるというのに、俺はどこまでも日常から蚊帳の外だ。日常は、俺の事がひどく嫌いらしい。」

自嘲的にそう言って笑った。静雄は何も言わなかった。ただ静かに、臨也を見ていた。臨也は尚も自嘲した笑みを保とうとするが、すぐその笑みが崩れた事に静雄は気付いてしまう。ゴンドラ内に差し込む真っ赤な夕日が臨也の瞳を赤く染めていた。その色はやはり人を嘲て射殺す赤ではなく、疲労と戸惑いを湛えた儚い赤に揺らいでいた。

夕日を見る俺のこれは、羨望の眼差しだ。胸を締め付ける切なさは、捨て去った喪失感だ。ひどく薄汚れてどろどろとした黒い感情で覆ったはずなのに、目の前にいるこの男だけは全てを見透かしてくる。畏怖さえも覚える、それが恐ろしくて絶対的で、俺はどうしてもこの男を殺さなければならないと思った。
俺は俺を殺す存在に恐怖している。それは俺を理解し得る存在になってしまうからだ。言いかえれば、唯一俺を非日常から連れ去ってくれる絶望的救済にも成り得る。救ってくれとは、言えないのに。救いという術を全て断ち切らなければ、俺は俺であれない。なのにその術は目の前にある、日常の様に。まるで息殺しだ。
あぁどうして俺は、俺は。

「疲れたよ」

無表情で無意識に、不安定に感傷的に、か細い喉で無理に呼吸する様に、誰に向けるでもなくただ世界に向けて、消え入りそうな声で、なのに残酷なほど澄み渡る声で、聞こえるはずのない反響と知りながら、いずれ押し殺される本音を、臨也は涙が落ちる様に零した。
瞬間、

「っな、に」

静雄は臨也の腕を引き寄せ、思わず自分の胸に押し込めていた。抱きしめた、という方が正しい。臨也は柄にもなく困惑し静雄の胸の中で固まっている。静雄に至っては、何故自分がこんな行動に出たのかを理解できていないようだった。
目の前が臨也の輪郭がぼやけた気がしたのだ。あまりの儚さに、静雄は臨也が消えてしまうのではないかと急激な焦燥に駆られ、そして気付いた時には、こんなとんでもない状況になっていた。

「っ、悪い」
「え、あ、シズちゃん」

悪い、と謝った自分に僅かに苛立ちを覚えた静雄は、それでも尚、臨也を離そうとしなかった。至近距離に居る嫌悪感は不思議と無く、吃驚や混乱が混じる胸騒ぎの方が強く体に走る。臨也を抱きとめる手を離してしまうと、こいつは消えてしまうという強迫観念が静雄を支配していた。

「何、何なんだ、離せ、触るな」

強烈な拒絶感に臨也が震える。胸の中でゆっくり身を捩る臨也は、強く抱いてくる静雄の手に痛みを感じながらも自分の顔を同じほど強く静雄の胸板に埋める事をやめられなかった。

「ならお前が離れろよ。」
「は?わけわかんない、シズちゃんがしてきたんだろ。」

口と行動が相反している。まるで自分と同じようだと臨也の瞳がぼやける。相手はこんなにも嫌悪して、こんなにも殺したい相手なのに、捨て去った安堵感が溢れ出すのを止められない。
やめてくれ、これ以上俺に入ってくるな。入って来ないでくれ。

「オイ、臨也。」
「…なに、」
「手前を見失いそうになったら俺を呼べ。」

俺は何を言っているんだと、静雄は自分に怒りを覚える。一瞬自分を見上げた臨也の顔が、静雄にはやけに幼く焼きついた。今俺の腕の中にいるこいつは、俺の最も憎み嫌悪する糞野郎なのに、なんで、わかんねぇ、でも、そう言いたかったのは本心だ。静雄はそう惑いながらも、直感と心からの言葉を吐いた事に後悔はしていなかった。
夕日に照らされた金髪は赤い瞳には眩し過ぎて印象的だった。一瞬だけお互いの目線が合ったと思うと、臨也はすぐに俯く。静雄の言った「手前」というのが、黒い自分の無色で壊れた核である自分自身だというのが静雄と眼が合って理解してしまう。俺は誰に何を言われているんだと、臨也は自分を叱咤する。泣きそうな安堵に緩められた糸をギリッと心に張る。

「あはは、ははっ!」

どんっ、と静雄を突き放したのは臨也。

「変なシズちゃん」

臨也の表情に凍りついたのは静雄。
壊れた子供がそこにいた。歪んだ性格がそこに在った。美しく人を嘲る笑顔は、ひどく痛々しかった。今までも極限状態にまで追い込まれて疲労し弱った臨也は何度か見たことがあった静雄だが、この表情は、臨也が自身を殺せる表情だと直感する。その表情を崩させなければ、そう静雄が動くより前に臨也が動く方が早く。臨也の儚く壊れた笑顔が近付いたと思うと、

「   」

視界が臨也で一杯になった後、離れたかと思えば臨也がゴンドラの壊れたドアを破り落下していった。静雄の視界に一瞬でそれらの出来事が起きたかと思えば、静雄は飛び跳ねるようにゴンドラから身を乗り出す。

「臨、」

落ちた、そう思って心臓が嫌に脈打ったが、それは間近に迫っていた地面に宥められる。気付けば観覧車は夕焼けの中一周していた。ジャンプしても問題のない高さでゴンドラから飛び降りた臨也は、そのまま颯爽と観覧車を背に駆けだす。
いつもの様に地を這いずる声で名前を叫びたかったが、それさえ出来ずに静雄は走り去った臨也の背を見送っていた。かろうじでゴンドラから降りたものの、茫然とその場に立ち尽くす。

キスしてきた臨也の顔は、涙を流さない泣き顔だった。

わけわかんねぇ。
衝撃、憤怒、驚愕、嫌悪、むず痒い高鳴り、そして意識。複雑過ぎる感情に珍しく静雄は頭を唸らす。臨也、その天敵を嫌悪と違う部分で意識し始めた事に更に戸惑いが襲う。一人日の暮れた観覧車の前で静雄は顔が赤くなってきたのを自覚しながらも、奴の歪みは自分にしか叩き壊せないというのに本音さえ満足に聞けなかった自分の無力さに舌打ちした。
あいつを泣かせてやれれば、何か変わるのだろうか。



夕焼けが観覧車を見下ろしていた。









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