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言葉はいらない、優しい口接けが愛を語るから



埃臭く薄暗い、けれど知り尽くしたフロアにカツンカツンとヒールが床を叩く音だけが反響して鼓膜を揺さぶる。足場の悪さも相変わらずだと懐かしさが込み上げる。立ち止まってグルリと奥の隅々にまで目を配らせ、以前と比べて荒みに拍車がかかり瓦礫が多くなったと記憶の中の光景と重ねた。
一体いつ振りだろう。いつの間にかこんなにも長い時が流れてしまったと小さな溜め息を吐いた。

当時存在を疎まれながらも寝食を共にした二人の姿は見受けられない。
彼等と別れてから、また何年経ったのだろう。口を開かせれば罵りしか与えてくれなかったけれど、中々感情を伝えてくれなかったけれど、彼等が居たから此処で暮らせたのは確かだ。今頃、何処で何をしているだろう。


ボロボロのソファの前に立って膝を軽く折り、肌触りの悪く所々剥けた革をさする。
ここで時々昼寝をした。ここで犬がゲームをしていた。ここで千種が本を呼んでいた。感慨に浸り始めた思考を振り払うように膝を伸ばし、革から手を離す。
そう言えば此処に骸様が座っていたらしい。らしいと言うのはそのままの意味で、聞いた話であって実際そうであったかは確かめる術を持ち合わせてはいないからだ。
嘗て私が凪だった頃、三人が僅かな時間を過ごしていた頃、このソファは骸様の定位置だったと千種が明後日の方向を向いて眼鏡を掛け直しながら教えてくれた。

クルリと体を反転させ、ポスンとお尻をソファに沈めた。重ねた年月のせいで座り心地は格段に悪くなっていたけれど、話を聞かされた当時の自分を鮮やかに思い出すことが出来た。次いで骸様が座っている情景を思い浮かべる。この位置から見えるのはボロボロになったドア。骸様もこんな風に眺めたのだろうか。幾度思ったかしれないもはや懐かしい疑問が今更沸々と沸き上がる。


「骸、様」


呟いた愛しい人の名は薄闇の空間に反響して吸収され消えた。もうこの場所にはそれを聞き取ってくれる人は居ないのだと改めて思い知り、けれど何処かで生きている筈だと信じて寂寞感を押し殺した。会おうと思えば会えるのだ、未だ捕らわれている骸様と違って。

だけど、いつだって一番に会いたいのは骸様で、なのに会うことは叶わなくて、もどかしさに時々気が狂いそうになる。意識は、奥深くでは繋がっているのに、確かな魂を宿した器には結局お目に掛かれず終いで、やり切れない。
会いたい、会いたい、一目だけでも、我が儘を言えばもっともっと、ずっと直ぐ隣に居て欲しい。


「僕もですよ」


不意に何処からか誰かの声がして、驚いて顔を勢い良く上げる。そして息を呑んだ。
何故、どうして、湧き上がる疑問が顔に滲み出たのか、気配も無くいつの間にか私の前に立っていたその人は目尻を軽く下げて笑った。


「何て顔をしているのですか、せめて口を閉じなさい」


言われてハッとして口元を右手で隠し、開けっ放しだった口を閉じた。恥ずかしい、恥ずかしい、顔から火が出そうだ。そしてどうすればいいかわからない。
あんなにも言いたい事は山程あったのに、会った時一番最初に言うことは決めてあるのに、だから頑張ってイタリア語を取得したのに、言葉が出てこない。変わりに何か息苦しいものが込み上げて来る。嗚呼、失しかけていた涙だ。今更になって、こんな時に出てきてしまうなんて。


「どっ、して、むくっ、ろっ、さま」


嗚咽に阻まれて正確に発音出来ない問い掛けをなんとか吐き出した。どうして此処に居るの、どうして私の前に居るの、本物なの、誰かの体に憑依して実体化した姿ではないの、ちゃんと血の通った本人なの、そんな疑問がぐるぐる巡る。
骸様は膝を折って右膝を地面に付け、そっと、壊れ物でも扱うかのように私の濡れた頬を両の掌で包んで目元を拭ってくれた。ただ黙って見詰めることしか出来ない私に、それはまるで自分は本物だと訴えかけているように思えた。

目と目をしっかりと合わせ、骸様はまた笑った。そして先程の切れ切れな私の言葉に一言だけ、答えをくれた。


「言わなければわかりませんか」


言い切ると同時に、骸様は私の唇に唇を寄せた。頭が真っ白になったけれど、それも一瞬の内に終わりを告げた。
触れるだけの、けれど角度を変え啄むような優しい口付けに、開いたままだった瞳を閉じた。もっと近くに存在を感じたくて、甘えるように縋るように腕を広い背中へと回せば、応えるように骸様も私を抱き締めてくれた。まるで何か――例えるならば時間や歳月なんか――を埋め合わせるような長い長い口付けの中、私は心の中でひたすら骸様へ感謝した。


ありがとうございます骸様、私を見つけてくれて。
ありがとうございます、私に会いに来てくれて。
ありがとうございます、私を、愛してくれて。






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