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嘆きの刺



 厨房から料理番が二人、食器と鍋を持って出てきた。
 一人が囚人たちにスープ皿と薄切りのパンとチーズを配り、もう一人が配られたスープ皿に湯気の立つスープをおたまで豪快に注いでいく。
 しょっちゅうテーブルにこぼしているが気にする様子はない。

 イバラはスープが注がれた先から食べ始めた。
 刻んだ野菜とそら豆入りのどろりとしたスープは味気ないが、誰かに取られる前にパンを浸して胃袋に収めていく。
 まずい飯にもいい加減慣れてきたころだった。

 夕食をつめこんで席を立つと、向かいの青年も続いて席を立った。

「なあ、トランプでもしないか? たまには遊んでみるのも悪くないよ?」

 食堂を出しなに青年が言う。
 イバラは顔をしかめて首を振った。

「いい。したくない」

「ふうん、そう」

「トランプしたいならあんた一人で行ってくれば?」

「いや、君が行かないならいいんだ」

 青年は笑ってイバラの肩を叩いた。
 イバラは返事を返さず黙って薄暗い廊下を歩き、自分の監房へ向かった。
 食堂や作業場と監房は鉄扉で隔てられており、今は扉は開け放たれて自由に行き来できるようになっている。

 狭い監房が並ぶ廊下に入ると、囚人たちがトランプに興じる歓声が聞こえてきた。
 ずらりと両脇に等間隔に並ぶ監房の扉も解放され、どこも中がよく見える。

 早々と夕食を終わらせてきた囚人が一つの部屋に集まり、日々の労働で手に入れたわずかな賃金を賭けてトランプ遊びをしている部屋がいくつかあった。

 イバラはトランプが嫌いではないが、ああいう連中と一緒に遊ぶ気にはなれなかった。
 金が絡んでいるのでいつ難癖をつけられるかわからないし、イバラは腕力がないので人殺しや強盗と喧嘩などとんでもない話だ。
 関わらないのが一番だとイバラはとっくに学習していた。

 イバラの部屋は奥にあるのだが、角を曲がったところでくまのうなり声のようなものが響いてきた。
 一つだけ鉄格子でできた中が丸見えの監房があり、そこの前に軍服姿の看守が一人立っていた。
 手入れのされていない茶髪を額にはりつかせ、口元に嫌味な笑みをはりつけている。

 ベッティガーという名の、そこそこ若いがすでにこの監獄に配属されて長い看守だ。
 ほかの看守たちのように金ではなかなか動かないが、正義感が強いというわけではない。
 悪を憎むゆえに囚人を毛嫌いし、ひまさえあれば囚人をいたぶって遊ぶような男だ。

「んな騒ぐなよきったねえな。おもらしでもしたのかよ?」

 ベッティガーは一重の黒い目を細め、鉄格子の奥に向かってせせら笑った。

「本当くっせえな。檻ん中でなに飼ってたらそんな臭いがするんだよ。風呂入ってこい汚物野郎。あ、でもお前そこから出れねえんだよな。
はは、床に頭こすりつけてお願いしますって言ったら、水ぶっかけてやってもいいぞ。ちっとは綺麗になるんじゃねえか?」

 鉄格子の奥から怒った声が上がり、中の囚人が鉄格子を両手でつかんでがしゃがしゃやかましい音を立てた。
 囚人は白髪のまじり始めた黒髪をふり乱し、血走った黄色い目を飛び出さんばかりにぎょろつかせてベッティガーを睨んでいる。
 病的なまでに白い肌をしており、紫色の口を大きく開け、唾液を垂らして叫んだ。

「しししし死神があああ! 失せろ! 失せろ! 俺の前に立つな! おっおっ俺を見るな!」

「うるせえ黙れ」

 ベッティガーは鉄格子をつかむ手を靴底で踏みにじった。
 囚人は悲鳴を上げて手を引っこめようとするが、ベッティガーが思いきり踏みつけているので動かせない。
 囚人がのたうちまわるのを見ていたイバラは、ふとベッティガーが振り返って目が合ってしまった。

「……なんだ62番。お前も構ってほしいのか?」

 ベッティガーは腰の鉄の棒に手を置いて笑う。
 イバラは慌てて視線をそらし、早足でベッティガーの後ろを通り過ぎた。
 金髪の青年も黙ってついてくる。

 自分の監房に入ると、イバラはベッドに腰かけてため息をついた。
 青年も一緒に入ってきて、イバラのベッドの向かいの壁に置かれたもう一つのベッドに腰かけた。

 この青年は同室者で、無愛想なイバラになにかと構ってくる奇妙な男だった。
 ジダルとは違う柔らかい雰囲気の美形で、いつもにこにこしてイバラに話しかけてくる。
 誰もが笑顔を忘れるこの荒んだ監獄で、彼一人だけが異彩を放っていた。

 このナポーレ監獄では、囚人に人権など存在しない。
 看守の気まぐれで殴られ蹴られ、反抗すれば暗室と呼ばれる湿った地下牢にぶちこまれる。
 囚人同士のいざこざなど茶飯事で、殴り合いもよく見られる。

 しかし看守は囚人たちの喧嘩くらいでは干渉してこない。
 罪人が互いに傷つけあったところで自分たちは痛くも痒くもない。
 労働をきちんとこなして自分たちの言うことに従い、脱獄を企てなければそれでいいのだ。

 もし喧嘩が発展して誰かが殺されても、焼却して忘れ去られる。
 看守たちの不始末になると面倒なので、それは事故として片づけられる。

 いい行いをした囚人は刑期が短くなることもある。
 そのほか、他人の悪事を暴露しても刑が軽くなることがあるので、ほかの囚人に冤罪をひっかぶせて外に出ようとする輩が後を絶たない。
 わいろが横行し、弱肉強食で、かなりの無法地帯である。

 囚人は着の身着のままここへ連れて来られる。
 囚人服に着替えれば、彼らは名前すら持たせてもらえない。
 看守たちは部屋の名前と囚人番号で彼らを呼ぶ。
 番号で呼ばれることが、囚人が人より家畜に近い存在であることを表している。

 イバラの同室の青年はトベラの305番と言い、イバラは彼についてそれ以上はなにも知らなかった。
 ナポーレでは囚人が互いの詮索をすることはあまりない。
 どうせ罪人なのだし、知られたところで弱みになりこそすれなんの得にもならないからだ。
 イバラも305のことを知らないし、305もイバラの名前すら知らない。


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あきゅろす。
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