ブルー・デュール
桜 常 編
57
まるで鳴瀬が取り計らったかのように、二日後の夜、おれはピース回収に向かうことになった。
車の中で友崇はずっと無言だった。
鳴瀬に正体を知られていることをなんとなく悟っているのだろうか。
それでいてなにも言わないおれに腹を立てているのか。
しかし鳴瀬は本当におれの正体を口外していないようなので、今のところ実害はない。
余計な心配をかけないためにも、おれは友崇になにも言う気はなかった。
おれはマスクをつけフードをかぶり、気づまりな狭い車内を出て月夜の下を走った。
長くシートの上で縮こまっていたので、とても開放的な気分だった。
どこまでも自由に走っていける。
今おれに翼があったら二、三回宙返りしていただろう。
今夜の目的地は、市が経営する小さな植物公園だ。
ここ数年入場者が右肩下がりで、税金の無駄遣いだとやり玉にあげられている施設だ。
塀沿いにぐるりと走ってまわったが、あちこちひびが入っていてだいぶ老朽化している。
おれは塀の脇に申し訳なさそうに生えている木を足がかりにして、中に入った。
今夜は満月で綺麗な星空だった。
夜とは思えないほど明るく、地面におれの影がくっきりと見える。
木々のシルエットが不気味にざわついているが、おれの心は不思議と穏やかだった。
植物公園は閑古鳥が鳴きそうだった。
砂利の小路がくねくねと続いているばかりで、特に面白みもない。
もっさりとした緑が群生しているが花は咲いていなかった。
それは夜だからか。
昼間に来ればまた違って見えるのかもしれない。
入り口にはレストランと土産物屋があり、奥の芝生広場には体験学習ができる資料センターがある。
だが塀を挟んですぐそばを走ってもピースの声は聞こえなかった。
つまりこのふたつの建物にピースはない。
温室にあるとも思えない。
とすると残りは中央にある東屋だ。
おれは東屋に向かって園内を駆けた。
ハーブ園を突っ切ると、トイレの芳香剤のような匂いがした。
東屋は丸太でできた二階建ての小屋だった。
屋上は展望台になっていて、どこの窓も真っ暗だった。
夜勤の警備員がここにいないことは確認済みだ。
おれは入り口のドアを引いてみた。
鍵がかかっている。
「鍵ならここだよー」
歌うような声がした。
振り返ると、おれと同じようにパーカーのフードをかぶった倉掛が生垣から顔を出していた。
黒い手袋をはめた手に小さな鍵を持ってひらひら振っている。
あらわになっている口が大きく赤い弧を描いた。
「やっぱり来たね。これが必要だろ? 早く取りにおいでよ」
あからさまに挑発してくる。
おれがいる東屋の入り口から倉掛のところまで、全速力で走って四秒というところだ。
ピッキングで鍵を開け中に入るだけの時間があるだろうか。
それだけこなすには微妙な距離だが、挑発に乗るよりはましだろう。
おれは倉掛を無視してドアに向き直り、ポケットからピックを取り出した。
「あれ? おい、無視すんなよ」
慎重にピックを鍵穴に突っこみ、なでるように動かした。
手ごたえあり。
数秒後、がちゃりと錠の外れる音がしてドアが開いた。
後ろで倉掛があきれたように叫んだ。
「おいおいまじかよ! 手慣れすぎだろ」
走ってくる倉掛の鼻先でドアを閉めて鍵をかけた。
少しは時間稼ぎになるだろう。
囁くようなピースの声がしていた。
どこかからおれを呼んでいる。
一階の事務室の棚にあったバラの絵が描かれたティーカップを、素早く選んで手に取った。
追いかけてきた倉掛の手を間一髪ですり抜け、窓から外に飛び出す。
園内を適当に走って木の影にしゃがみこんだ。
うまく撒いたようだ。
おれは深呼吸してからティーカップに右手をかざした。
ピースは待ち望んでいたかのようにおれの手に集まっていく。
こちらに走ってくる足音がした。
ピースを回収し終えるまで我慢し、振り返ると、倉掛が走ってきていた。
おれは木蔭から走り出て倉掛のそばの小路に入った。
倉掛も鳴瀬と同じくらい足が速い。
手を伸ばせば届きそうな距離だ。
おれはティーカップを倉掛の顔めがけて投げつけた。
思わず受け止めた倉掛の足が一瞬止まる。
その隙に全速力で駆けた。
ここは背の高い植物だらけなので、追う側より逃げる側が有利だ。
おれはときどき背後を確認しながら、入ってきた場所を目指した。
壁を乗りこえようと足をかけたとき、どこかで小枝が折れる音がした。
しかし植物公園はひっそりと静まり返っている。
梢のこすれる音が風に乗ってくるだけで、足音の類はしない。
鳴瀬だろうか。
今夜は一度も見ていないし、追うふりをして逃がしてくれたのかもしれない。
気にしないことにして、おれは植物公園をあとにした。
→六章
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