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ブルー・デュール
桜 常 編

85

 廊下を歩いていると、生徒の話し声に混じっておれを呼ぶ声が聞こえた。
 とてもかすかだが、その存在は大きい。

「どうした?」

 歩みを止めたおれに、慶多が不思議そうに声をかけた。

「いや、なんでもない。気のせいだ」

 笑ってごまかし、先を急いだ。
 移動教室は早めに行き、いい席を取るのが鉄則だ。

 桜常高校では一年時に芸術の選択科目があり、音楽、美術、書道の三つから好きなものを選べる。
 おれと慶多は美術を選択していた。
 峻は手を使う作業が嫌いだとかで音楽。
 だが予想外に器楽中心の授業だったらしく、苦戦しているようだ。

 美術室に入るとすでに半分ほどの席が埋まっていた。
 机は一つの机を囲むように八つずつまとまっていて、四つの島に分かれている。
 中心の机にはモチーフが置かれるようになっている。
 おれと慶多は後ろの空いていた席についた。
 油絵の具の独特の香りが充満していて、クリーム色のカーテンの端は飛び散った絵の具で
色とりどりに染められている。
 おれは椅子を引いて慎重に教室全体を見渡した。

 チャイムが鳴り、準備室から老年のおっとりした美術講師が出てきた。
 ふわふわした白い髪と白いひげ、背が小さいことからドワーフと呼ばれている。
 安直なネーミングセンス。

「ええと、このクラスでは初めてかな。今日から一カ月、教育実習生が来るから、よろしくね」

 ドワーフに続いて若い男が現れた。
 四角い眼鏡にアシンメトリーの黒髪の、芸術家らしい風貌の実習生だ。

「教育実習生の鷹屋(たかや)です。ここの卒業生です。これからよろしくお願いします」

 おれはじっと鷹屋を見つめた。
 間違いない、こいつ、ピースを持っている。

 かなり近くからあの声がする。
 何人もの子供が内緒話をしているような小さな声だ。
 このタイミングで聞こえ始めたのだから、十中八九あの教育実習生が知らずに持ちこんだのだろう。
 なんという偶然。
 まだ友崇も本條兄弟もかぎつけていないようだし、ここはおれがひと肌脱ごう。

 今日はりんごのデッサンだった。
 目の前に置かれた少ししなびたりんごを、スケッチブックに鉛筆で描いていく。
 だがおれはほかのことに気を取られて集中できなかった。

 気がつくと、おれのすぐ後ろに鷹屋がいてスケッチブックを覗きこんでいた。
 そっと振り向くと、彼は人好きのする笑みを浮かべた。

「なんというか……前衛的だね」

 スケッチブックを見ると、いびつなりんごの表面がブラックホールのように黒々と塗りつぶされていた。
 光が当たっているのを表現しようとしたのだが、考えごとばっかりしていて
なにも見ずに手を動かしていたのがまずかったようだ。
 隣から覗きこんだ慶多が、肩を震わせて無言で笑っている。

「……下手って言ってくれていいですよ」
「いやいや、これはこれで面白いよ。そっくりに描かなきゃいけないってことはないからね」

 鷹屋はにこにこしておれの生み出した謎の物体をほめた。
 曖昧に返事をすると、にっこりしてからほかの生徒を見に行った。
 とっつきやすそうな実習生だ。
 これならうまくやれそうな気がする。


   ◇



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