ブルー・デュール
桜 常 編
37
深夜の住宅街はしんと静まり返っている。
生垣が呼吸する音が聞こえてきそうだ。
分厚い雲に覆われて月は見えず、まばらにある街灯は蛍光灯が切れていたり明滅していたりで心もとない。
そんな中、おれはピースを握りしめて、暗い路地を走っていた。
首尾よくピースを回収したところまではよかった。
だがまたしても鳴瀬が現れて、危うく捕まりかけた。
なんとか逃げ出したものの、鳴瀬はしつこく追いかけてくる。
友崇との待ち合わせ場所はすぐそこだが、学校に出入りする車を見られるわけにはいかない。
おれは奴を撒こうと必死だった。
「くそ!」
かなりの距離を走ってきているのに、鳴瀬はあきらめる気配をちっとも見せない。
まるで機械仕掛けの人形のようだ。
もういい加減息が切れてきたが、追いかけてくる影の動きはよどみない。
住宅地はどこも同じような風景で方向感覚が狂う。
堂々巡りの追いかけっこをやらされているようで嫌な気分だった。
ときどき後ろを確認するが、鳴瀬は一定の距離を置いたままどこまでもついて来る。
角を曲がろうとしたとき、おれはなにかにつまずいて大きくつんのめった。
全速力で走っていたので体制を立て直せない。
地面が迫ってくる中、おれは塀の影から倉掛が足を突き出しているのを見た。
おれの右手にはピースが握られている。
繊細な球体をかばい、おれは体の左側を下にして倒れた。
だがごつごつしたアスファルトに叩きつけられ、衝撃で手からピースが飛んでいった。
倉掛があっと叫ぶ声を聞いたような気がする。
倉掛が手を伸ばす。
だが間に合わなかった。
か細いが神経を逆なでする耳鳴りのような音を立てて、ピースは砕け散った。
おれはその何色ともいえない不思議な球体の破片が飛び散っていくのを、
スローモーションのように見ていた。
中で渦巻いていた煙のようなものが、瞬きをする間におれの視界いっぱいに広がった。
銀河が浮かぶ深い湖に飛びこんだようだ。
いつの間にか、おれは広がりのない闇に浮かんでいた。
重さもなにも感じない。
声も出ないし体も動かない。
おれは大勢の断末魔のようなすさまじい声を聞いた。
耳にではなく、じかに脳にぶちこまれたような衝撃だ。
そして、おれの頭の中をいくつもの映像が流れていった。
そのスピードたるや、一秒間に何本もの映画を見させられているようだ。
通常ではありえない早さで映像が過ぎ去っていく。
頭が割れそうで、体中の血管が切れそうで、発狂しないのが奇跡に思えた。
気がつくとおれは野原に立っていた。
綺麗な野原だ。
青々とした草がなだらかな丘を覆っていて、周りを取り囲む木々は若葉色だ。
空は青く澄みきっている。
空と野原の色のコントラストが強すぎて現実味が感じられず、絵画にしか見えない。
だがどこかで見たことがある景色だ。
どうしてそんな気がするのだろう。
こんな場所に行ったことはないはずなのに。
おれは野原を駆け抜けようと足を動かし、自分がアスファルトに寝転がっていることに気がついた。
今見たものはなんだったのか。
ピースが落ちた場所にはかすかな白い煙が漂っているだけで、それもすぐに薄れて見えなくなった。
割れた破片は消え去っていた。
「お、おい、今のはなんだ?」
倉掛はピースを受け止めようと手を伸ばした状態のまま、地面に糊づけされたように突っ立っていた。
瞳が小刻みに震えている。
少し離れたところで鳴瀬も茫然と立ちつくしている。
どうやらふたりともおれと同じものを見たらしい。
「おい、なんとか言えよ!」
倉掛が焦りもあらわに喚いた。
だがおれは黙ったまま、フードを深くかぶりなおしてさっと立ち上がった。
距離をとる前に倉掛に詰め寄られ、両肩を強くつかまれた。
普段セクハラばかりされているので、体つきでおれだとばれてしまいそうだ。
おれは逆に倉掛の両腕をつかみ、地面を強く蹴って宙返りし後ろに下がった。
意図していなかったが、その際に倉掛の顎を思いきり蹴り飛ばしてしまった。
倉掛は平衡感覚を失ってよろめき、塀にぶつかってずるずると倒れた。
「青波! ちっ、待て!」
鳴瀬が大股に走ってくる。
もう守るものはなにもない。
おれはきびすを返して再び逃げ出した。
胸にわずかな違和感を抱えて。
◇
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