サビイロ契約
89
決断をした珂月の行動は早かった。
珂月はその夜のうちに荷造りを始めた。
服をトランクやボストンバッグにつめこみ、父親の写真や思い出の品々を家具がわりにしていた段ボール箱に入れていく。
いざ必要なものを選別してみると、いらないもので部屋があふれかえっていたことに気づいた。
少し迷ったが、ドッグズ・ノーズでもらった無線機は置いていくことにした。
未練の残りそうなものは捨てたほうがいい。
ルザは夜の闇に紛れて一体のバイラを呼び出した。
六本足の蛙のようなバイラで、大きさは大型のバンほど。
口は顔からはみ出すほど広く裂けていて、黄みがかった頬の皮膚が重そうに垂れ下がっている。
頬袋があるバイラらしい。
ルザは珂月のバッグを次々とそのバイラの口に放りこんでいく。
珂月はなんとなく嫌だったが、引っ越し屋を頼めるわけもないので我慢することにした。
ルザと珂月は狼型バイラにまたがり、アパートをあとにした。
珂月はルザの背中にしがみつき、一度も振り返らなかった。
二人はそのまま東京を飛び出し、空を旅した。
旅をしながら、二人は今後の生活についていろいろと理想を語りあった。
他愛のない話がほとんどだったが、珂月はとても楽しかった。
海岸線をずっと飛んで、朝が来る前についた町に二人は降り立った。
太平洋に面した港町だった。
防波堤の内側に漁船がたくさん連なり、波に静かに揺れている。
建物と言えば潮だれた民家がほとんどだが、灯台の周辺には民宿や土産物屋の看板があった。
二年前までは観光地だったようだ。
海岸の近くは高低差が大きく、古めかしい瓦屋根の住宅街を走る曲がりくねった道は坂だらけだった。
遊泳禁止の立て札が立てられた磯辺の付近は崖になっていて、崖の上には別荘がいくつか建っていた。
海が一望できる素晴らしい景観の別荘地だが、今は無人だった。
見晴らしがいいと言うことはそれだけバイラからも見つかりやすいので、誰も近寄りたがらないのだ。
珂月とルザは、その中からあまり荒らされておらず、電気や水道が通っている一軒を選んだ。
外壁は淡いベージュ、屋根は紺色の二階建ての家で、玄関を抜けると吹き抜けの開放的なリビングが広がっている。
一階にはキッチンとバスルームがあり、二階には三つの寝室があった。
寝室のバルコニーからは一面に海が見えた。
海に面したリビングの壁はすべてガラス張りで、高いところから陽光がさんさんと降りそそいでくる。
窓の外のテラスは温かみのある茶色の板張りで、テーブルとチェアのセットがまだ残っていた。
階段を上がって一番奥の寝室がダブルベッドの夫婦仕様で広かったので、珂月は荷物をそこに運びこんだ。
冷蔵庫や洗濯機などの家電製品と家具はそっくり残っていて、すぐに暮らせる用意は整った。
そして二人の新居生活が始まった。
問題なのは町の住人たちだった。
突然見知らぬ二人組が誰も寄りつかない海辺の別荘地に住み着いたので、警戒してはばからなかった。
田舎町ゆえに住民の結束は強くよそ者には厳しく、珂月がよろしくと言って回ってもほとんど相手にされなかった。
これでは配給ももらえないし、まともに暮らしていけないと珂月はほとほと困ってしまった。
しかし、転機はすぐにやってきた。
ある日、数体のバイラが町を襲撃したのだ。
小さな町なのでハンターの数も少なく、手慣れていない者たちばかりで苦戦していた。
そこに珂月がルザを引っ張ってやってきた。
二人はあっという間にバイラを蹴散らして退散させ、住民たちを守った。
二人が腕ききのハンターだとわかると、住民の態度は一変した。
今までの非礼をわびて町を守ってくれた礼を述べ、ずっとこの町にいてくれと町長自ら頭を下げられた。
それからは町の一員として歓迎され、二人は満足のいく生活を手に入れることができた。
身分証なしで配給品をもらえるどころか、住民たちがこぞって貢物を送ってくる始末だった。
毎日届けられる新鮮な魚介類に珂月はほくほくしていた。
珂月は家にいるときはルザと一緒にまったりとした時間を過ごし、ルザが帰っていないときは、
住民にもらった釣り竿で防波堤の上で釣りをして過ごした。
パトロールと称して町をぶらつけば、赤銅色に日焼けした船乗りの男たちに声をかけられた。
東京にいたころと比べると酒もないし楽しみも少ないが、穏やかな時間の流れをゆっくり楽しむことができた。
◆
よく晴れた日、珂月は町の公民館に来ていた。
公民館で定期的に、町に在籍するハンターの寄り合いが行われるのだ。
そこで様々な情報交換を行い、パトロールの分担を決めてから、適当に雑談をして帰るのが習慣となっている。
その日もいつものように雑談が始まり、珂月も輪に加わって海の男たちの元気な声を聞いていた。
そんなとき、公民館のドアが開いて一人の中年女性が入ってきた。
「話は終わったかい?」
くるくるのくせ毛を適当に束ねた飾りっけのない女性は、大きなプラスチックのケースを抱えていた。
「おう! おまえ来たのか!」
珂月の隣にあぐらをかいて座っていた中年男が太い手をぶんぶん振った。
この男が町のハンターのリーダーで、名を辰元(たつもと)と言った。
珂月は辰元の赤ら顔を見つめた。
「辰元さんの奥さんですか?」
「ああそうだよ。藤里は会うの初めてか?」
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