88 しばらくなんの音もしなかったが、あきらめたようで足音が遠のいていき、階段を下りる音がしてまた静かになった。 珂月はドアに額をつけて目を閉じた。 おせっかいな飛鶴を引き離すには、こうするほかなかった。 ドッグズ・ノーズはルザに恐れをなして珂月を見限った――この筋書きが一番五十井を刺激しない。 飛鶴の好意を踏みにじったことに胸がじくじく痛んだが、珂月は後悔していなかった。 自分で選んだ道だ。 珂月は浩誠も飛鶴も仲間たちもすべて捨てて、ダラザレオスであるルザを選んだのだ。 もう人間の中には戻れない。 珂月にはルザしかいない。 ドアに額をつけてうなだれる珂月の後ろから長い腕が絡みついてきた。 珂月は覆いこむように抱きしめられた。 「……いいのか、仲間だったんだろ」 ルザの声が耳の後ろからした。 珂月はこくんと頷いた。 「いい。あの馬鹿は、ああでも言わないと五十井んとこに殴りこみに行きかねないから。もうあいつらのことは忘れる」 「そうか」 珂月は首をねじってルザを見た。 ルザは長いまつ毛に縁取られた鋭い目で、まっすぐ珂月を見下ろしていた。 ルザは珂月の顎に手をそえて、そっとキスをした。 珂月は目を閉じて大人しくキスを受けた。 「……悪かったな」 不意にルザが言った。 珂月は目を開けて口角を上げた。 「やっとおれのこと信じる気になった?」 「ああ」 「ったく……おれよりも五十井の言うことを信じるなんて、どうかしてるよ」 「……うるさい。お前がなんでもあいつに喋るからだ」 「え、おれが五十井に? なんか言ったっけ?」 「あの日、俺が浩誠のとこに行った夜に、お前俺に言ったろ。ずっと一緒にいるって約束しろって。あの野郎それ知ってたぞ」 「あれはっ」 珂月は体ごとルザに向き合った。 ルザは珂月の頭の両脇に手をつき、むすっとしている。 珂月はやっと、ルザが五十井の言うことを真に受けてしまった理由に思い当たった。 「ルザ、あれはおれが言ったんじゃない。五十井はおれの無線機に盗聴器をしかけてたんだ。だから、なんでもあいつに筒抜けだったんだよ」 「盗聴器?」 「知らない? すごく小さい機械で、それを取りつけると、遠くにいてもその機械の周りの音が聞こえるようになるんだ。 無線機の送信ボタンを無理やりずっと押し続けられてるみたいな状態。 気づかないうちにそれつけられてたから、ルザのことがばれちゃったんだよ」 ルザは面白くなさそうに唇をへの字に曲げた。 「なんだそりゃ……人間はろくなことを考えねえな……」 「だから、おれがルザを裏切るような真似するわけないんだよ。あの夜にそう誓っただろ。おれは絶対にお前を裏切らないって」 珂月は必死に弁明した。 もう珂月にはルザしかいないのだ。 つまらない誤解でルザを失うわけにはいかなかった。 ルザはようやく笑みを見せた。 「そうだったな。覚えてるよ」 「勝手に不安になったりして、馬鹿だなあ」 「うるさい」 ルザは人を食ったようないつもの表情に戻り、再び珂月にキスを落とした。 今度は珂月の唇を開かせ、内部までしっかりと味わった。 五十井に汚された珂月を自分の色に塗り替えるように。 口を離すと、珂月は久しぶりのルザの感触にぼおっと頬を紅潮させていた。 ルザは笑って珂月の髪をすいた。 「無事でよかった」 「うん」 珂月はルザの胸に顔を押しつけた。 「これからどうしようか」 珂月が言った。 「ここにはもういられないよね」 「そうだな。どこか別のところに引っ越すか。もう少し広い家にな」 「うん」 珂月はぼんやりしたまま返事をしていた。 ルザと一緒ならどこでも構わないと思った。 → ]U ←*| [戻る] |