サビイロ契約
76
五十井に反抗するやいなや、彼の部下の平手打ちが飛んできた。
綺麗な音を立てて珂月は頬をぶたれ、メンバーはあっと息をのんだ。
仲間意識の強いドッグズ・ノーズの前で珂月に手をあげるなど、火に油を注ぐようなものだった。
「珂月!」
「てめえらいい加減にしろよ!」
メンバーは男たちに一斉につかみかかった。
殴りかかられては男たちも反撃せざるを得なく、たちまち乱闘騒ぎになった。
五十井はあきれて首を振った。
珂月はやめろと叫んだが、酒が入った上興奮状態のメンバーの耳には届かない。
広かったはずのリビングは今やすし詰め状態で、上を下への大騒ぎだった。
五十井は珂月の腕をつかんだまま壁際に後退し、もがく珂月を一睨みした。
珂月はダラザレオスばりの五十井の鋭い目に射すくめられ、一歩も動けなくなった。
浩誠は痛む腹を押さえて怒鳴った。
「やめろお前ら!!」
滅多に声を荒げない浩誠の怒声が部屋じゅうに響き、メンバーはようやっとおとなしくなった。
浩誠は眉間にしわを寄せて飛鶴たちを順々に睨みつけた。
「そんなことしてもしょうがねえだろ。わかれよ」
メンバーは恥じ入ったようにじっと黙ったが、一人が叫んだ。
「なんで珂月なんだよ! そいつは俺たちの仲間なのに!」
「……『なんで』?」
五十井がその言葉を待っていたとばかりに喜色を浮かべた。
その場全員の注目が五十井と五十井に捕まれた珂月に集まった。
「なんで珂月かだって? その理由が知りたいのかい?」
五十井は口元をほころばせた。
その様子に浩誠は嫌な予感を覚えて珂月から離れさせようとしたが、部下たちがしゃしゃり出てきて引き留めた。
「知りたいのなら教えてあげるよ」
五十井は珂月のシャツの裾に手をかけた。
「やめろっ!」
浩誠は五十井につかみかかろうとしたが、すんでのところで五十井の部下が羽交い締めにした。
五十井は硬直している珂月のシャツを鎖骨が見えるまで大きくまくりあげた。
左胸に広がるバイラと茨の黒いタトゥーがメンバーの目に止まった。
「……なんだ、あれ」
誰かが言った。
「見たまえ」
五十井が得意げに言った。
「これはバイラをかたどったものだ。こんなものを誰が彫ると思う? 人間じゃないってわかるね?」
リビングは水を打ったように静まりかえった。
五十井の声だけがやたらと大きく聞こえた。
「このスミはダラザレオスが入れたものだ。つまりこの子はあるダラザレオスの所有物というわけだ。
おや、ほかにも所有の印が入ってるみたいだね」
五十井は珂月の胸を見下ろしてにやりと笑った。
珂月の白い胸には先日浩誠が残した赤い跡がまだ残っている。
五十井はそれをルザがつけたものと勘違いして言った。
「よっぽどあのダラザレオスは珂月のことがお気に入りみたいだ。ええと、ルザとか言ったかな?」
「どうして名前を……」
珂月は目を見開き、浩誠は思わず声を出していた。
五十井は羽交い締めにされている浩誠のほうを向いた。
「珂月のことはよくよく見張るよう注意させていたからさ。あ、中堀、あんまり彼を乱暴に扱ってはいけないよ」
五十井は浩誠を羽交い締めにしている男に言った。
「彼、昨日の夜そのダラザレオスと珂月をめぐって戦って怪我してるから。その服の下はどうせアザだらけなんだろ」
浩誠はぐっと押し黙った。
珂月はびっくりして五十井を見た。
「なんで知ってるんだよ! まさか、見てたのか?」
「ああ。こっそり見てたよ。君がシンク・ベルを飛び出してからずっとね。
単身でダラザレオスに挑むなんて、まったく榎村くんの勇気には恐れ入ったよ。こんな状況でなければぜひうちに欲しいくらいだ」
五十井は一人だけ楽しそうにしている。
一方、ドッグズ・ノーズのメンバーは絶句するばかりだった。
「さあ、これでわかっただろう」
五十井は再びメンバーに言葉を投げかけた。
「榎村くんは珂月と親しくしすぎたから、珂月が止めなければまず間違いなく殺されていた。
それは君たちにも言えることだ。珂月に近づくと匂いが移って、敏感なダラザレオスの逆鱗に触れて殺されるよ」
誰もなにも言わなかった。
物音すら立てないので、耳鳴りが聞こえるほどリビングは静けさに包まれた。
「じゃあ我々はこの辺で」
五十井はゆっくりときびすを返した。
珂月は血が止まりそうなほど強く腕を握られていて、逆らうことができなかった。
五十井は珂月と部下を連れて浩誠の部屋を出た。
もうドッグズ・ノーズの誰も追っては来なかった。
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