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サビイロ契約

55

「ここには慣れたか?」

 急に話しかけられ、ぼーっとしていた珂月は慌てて顔を引き締めた。

「はい。だいぶ」
「それはよかった。ところで珂月、ほかに菓子はないのか? これにはいささか飽きたんだけど」
「あ、はい。ほかにはメープルマフィンとぬれせんべいと、あとチーズスフレがあります」
「じゃあ、スフレをもらおうか」
「わかりました」

 珂月はぺこりと一礼し、あんドーナツの皿を下げた。

「もったいないからそれは君が食べていいよ」

 ドアに手をかけた珂月の背中に寛大な声がかけられた。
 珂月はぱっと後ろを振り向いた。

「ありがとうございます。じゃあいただきます」

 珂月の口元がほころんでいるのを見た五十井はくすりと笑った。

「珂月もここで一緒にお茶しよう」
「え、一緒に……?」
「一人で食べてもつまらないからね。スフレも味見させてあげるから」

 滅多に食べられない甘いものの誘惑に、珂月は二つ返事で了承した。
 にやにやしながらもう一杯お茶を注ぎ、皿にスフレを二つ乗せてお茶とあんドーナツと一緒にお盆に乗せ、五十井のところへ戻った。

 五十井はデスクを離れて応接セットの二人がけソファに腰かけており、隣をぽんぽんと叩いた。
 珂月は少し躊躇したが、部下に指示を下すときとは打って変わって和やかな五十井のほほ笑みにつられ、隣に座った。

「どうぞ」
「ありがとう」

 珂月は五十井の前にチーズスフレを置き、お茶とドーナツは自分の前に置いた。
 上司でありシンク・ベルのボスと肩を並べていては気が休まらないが、珂月はそっとドーナツに手を伸ばした。
 少し温めておいたので、こしあんがとても甘く感じた。

「おいしい?」

 五十井が言った。
 珂月はにっこり笑って深く頷いた。

「とてもおいしいです。その辺のドーナツとは比べられないです……こんなの食べたの何年ぶりかわからないですよ」
「はは、そんなに好きならドーナツは全部珂月にあげるよ。しょっちゅう家から送られてくるけど、毎日食べたいほど好きでもないからなあ」
「家? 実家、ドーナツ屋さんなんですか?」

 珂月はなんの気なしに言ったのだが、五十井はきょとんとしたあと盛大に吹きだした。

「え、あれ? 違いましたか?」

 珂月はなにかおかしなことを言ったかと首をかしげた。
 五十井はさんざん笑い倒したあと、目尻に溜まった涙を拭いて珂月の肩を叩いた。

「ドーナツ屋って……初めて言われたよそんなこと。ははっ、お前かわいいな」
「え? あの……」
「そんな顔するなって。ほめてんだよ。ああ、うちはドーナツ屋じゃないよ。一応言っとくと」

 五十井はフォークでスフレを二つに切り、半分を口に放りこんだ。

 珂月はお茶から立ち上がる湯気をぼんやり見つめていた。
 しばらくそうして考えこんでいたが、不意に食べかけのドーナツを皿に戻すと五十井のほうを向いて座りなおした。

「あの」
「ん?」

 五十井はお茶をすすりながら視線だけ投げてよこした。

「このビルにダラザレオスが一人出入りしているじゃないですか」
「ウァラクがどうかした?」
「いえ……ただ、敵をここに置いておくのは危険なんじゃないかと思って……ここは対ダラザレオスの組織なのに」
「ウァラクは大丈夫だ。留宇がいるから、手出しはしてこないよ」

 五十井はスフレをまた口に運んだ。
 珂月は膝の上でこぶしを握り、わずかに身を乗り出した。

「でも、絶対に襲って来ない保証はないじゃないですか。あいつらは人間を狩ることが好きなんです。
留宇の力じゃ、いざってときウァラクを止められない。バイラ避けにしたって、リスクが高すぎます」

 珂月は乾いた唇を舐め、力説した。

「留宇だけじゃウァラクは満足しないと思います。ウァラクが血に飢えたとき、真っ先に襲われるのはここの人間です。
ダラザレオス相手じゃここのハンターだって敵わないだろうし、五十井さんだって危ないかもしれません。
契約を交わしたって言ったって、あいつらから見ればおれたちなんかただのエサなんですから、エサとの約束なんて簡単に破りますよ」

 珂月が言葉を切ると、黙って聞いていた五十井は湯のみをテーブルに置いた。

「……ずいぶんダラザレオスに理解が深いようだね」

 心の奥底まで見抜くような五十井の眼差しに貫かれ、珂月の心臓が跳ねた。

「まるで実際に体験しているような言いかただ。ねえ、どうしてそんなにダラザレオスに詳しいのかな?」
「あ、いや、推測ですけど。おれも一応バイラと戦ってきたハンターなので、なんとなく……想像で」
「本当?」

 五十井は珂月にずいと顔を近づけてきた。
 珂月は五十井の威圧感に圧されてのけぞった。
 すでに五十井は普段の、シンク・ベルのボスの顔に戻っていた。



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