サビイロ契約
54
三日間の当直の順番がまわってきた。
ルザは珂月のスケジュールを把握しているようだったが、念のため部屋に書き置きを残し、珂月は新宿へ出かけた。
シンク・ベル本社ビルの入り口ですでに顔見知りの門番にハンター証を見せて中に入り、エレベーターに乗りこむ。
普段はまっすぐ最上階の五十井の元へ向かうが、今日は当直の仕事なので当直室に顔を出さねばならない。
珂月はずらりと並ぶ階数のボタンの一つを押し、着替えの入ったスポーツバッグを肩からおろした。
ビルの中ほどの階に降りた珂月は、辺りをきょろきょろ見回した。
誰もいない。
パーテーションで仕切られている元オフィスには明かりがついておらず、人の気配はない。
「……あ、もう一つ下の階か」
珂月は薄暗い室内をぐるりと見渡し、エレベーターの上部に刻まれた階数表示が目的地の一つ上であることに気がついた。
だがエレベーターはもう下に戻っていってしまっている。
珂月は仕方なく、フロアの端にある階段で一つ下の階に降りることにした。
廊下をぽてぽて歩いていた珂月は、どこからか人の声が聞こえてきて立ち止まった。
耳を澄ませ、声のするほうに足を向ける。
近づくにつれ、その声が普通の話し声でないことに珂月は気づいた。
とぎれとぎれに聞こえてくるのは、呻き声のような奇妙な響きだ。
給湯室の隣のドアがわずかに開いている。
珂月はそっとドアの隙間から中を覗きこんだ。
そこは仮眠室だった。
パイプフレームにマットレスだけのベッドが二つ置かれていて、奥のベッドでウァラクが留宇を抱いていた。
シャツを腕に引っかけただけの留宇が、ベッドに座ったウァラクにまたがって下から貫かれている。
暗い室内で、留宇の細い肢体だけが白く浮かんで見えた。
留宇は固く目を閉じて辛そうに息を吐きながら、懸命にウァラクを受け入れている。
ウァラクは無表情で留宇を突き上げていた。
結合部からぐちゅりと粘着質な水音がする。
ウァラクは黒い文様の浮かんだ留宇の薄い胸に舌を這わせた。
そこには赤い線が横に何本も引かれていた。
爪痕のようだ。
治りかけた傷の上から新しい傷が重ねられ、血がにじみ出ている。
ウァラクは留宇を抱きながらその血を舐めていた。
「うっ……あ、はあ……」
留宇はときどきぴくりと体を震わせる。
どの角度から見ても、快楽ではなく痛みに耐えているようだった。
珂月は瞬きをすることさえ忘れていた。
胃がむかむかして吐き気がした。
こんなものはセックスとは言わない。
ただの一方的な捕食行為だ。
淡々と留宇の血を舐めていたウァラクが、不意に珂月のほうを見た。
珂月の存在にとうに気づいていたようだ。
鋭い流し目と視線が合った珂月は弾かれたようにドアから離れ、廊下を逆走してエレベーターのボタンを連打した。
ボタンを押す指が震えていた。
留宇と珂月には決定的な違いがある。
ダラザレオスに仕方なく体を差しだしているか、体だけでなく心まで差しだしているか、だ。
留宇はあれほどひどい扱いを受けているのに、恨みごと一つ言わず喜んでウァラクに抱かれている。
よほどウァラクに心酔しているようだ。
珂月はルザに、もっと労われだの、飲みすぎだやめろだの、遠慮せずに文句を垂れる。
しかし、留宇はそんなことを口にしたことは一度たりともないに違いない。
ウァラクに比べれば、ルザがどれだけ人間味に溢れているかよくわかる。
それでも珂月はルザに心まで渡してはいない。
珂月はそう思っていた。
捕食者被捕食者という関係の上で、ある一線を越えてはならないと自覚している。
「そうだ……あいつだって、ウァラクと同じダラザレオスなんだ……」
壁に額をつき、珂月はボストンバッグの持ち手を痛いほど握りしめた。
「おれのこと守ってんのも血が大事だからで、おれ自身が大事なわけじゃない……。あいつが優しいとか、馬鹿みてえ……」
珂月は喉を鳴らして低く笑った。
無駄な期待をしていた自分を、嘲笑うかのように。
◆
珂月は下の階で当直にやってきたことを伝え、最上階の五十井のところへ行った。
今日の夜までは普通の仕事の時間だ。
と言っても、五十井に用事を申しつけられないかぎり、することはない。
社長室の控室で待機していた珂月は、時計を見て時間になるとお茶をくみ、五十井のデスクへ運んだ。
五十井は仕事を中断し、デスクに座ったまま休憩をとった。
五十井は椅子をまわして窓のほうを向き、足を組んで茶をすすった。
珂月は笠木から緑茶のおいしい淹れ方を仕込まれている。
高級茶葉を使用しているので、せっかくの味を損なわないようにと笠木は言った。
このご時世に高級茶葉とは、と珂月は心の中で笑った。
巷の人々は普段食べるものにすら困っているというのに、あるところにはいくらでもあるようだ。
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